何故なしに生きるということ
「PERFECT DAYS」と神秘主義

REVIEWおすすめ
テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

精妙で難解な生のバランス

ここまで話しながら、わたしが平山に否応なく禅をみるのは、その悟りきれぬ凡庸さゆえだ。もちろんドラマツルギーの要請としても、悟り切った清掃員であれば映画もまた凡庸なものになっていたであろうから、悟りきれぬ凡庸ゆえの主人公の揺らぎが観る者に橋を渡しその感情を共振させるのであるが。

さきにパンフレットからの引用で、わたしが高崎卓馬や川上美映子の発言に違和感があったのは、禅というものへのありきたりな誤解があるからだし、かえって平山に禅をみることの理由は、もっともらしさや◯◯っぽいことの嘘こそ、禅が嫌っているものだと考えているからだ。いや、わたしは禅などまったくわかってはいないが、それでも役所広司が演じることで平山というキャラクターが得たのはそんなふうに、なにかの根拠や理由をもって存在しているからではない。なにかのため、誰かのためにそこにいるからではないし、三上のように自分のために過去を埋め立てながらそこにいるわけでもない。

ヴェンダースがドイツ人であり、この映画に対し禅のようだという評価もあることからわたしが連想するのは名前は中世のドイツに生きたキリスト教神秘主義の代表者であるエックハルトだ。エックハルトについては、前回の記事でも京都学派との絡みのなかですこし触れた。

エックハルトは「無」をめぐる思想で禅と通底し、ハイデッカーにも影響を与えた。やがて異端審問で処刑された人物だ。わたしはエックハルトと禅の関係を京都学派に連なる哲学者、上田閑照の『哲学コレクションⅣ 非神秘主義 禅とエックハルト』(岩波現代文庫)で詳しく知った。本のなかで繰り返し引用される詩がある。それはルネッサンス期の神秘主義の宗教詩人シレジウスのつぎのものだ。上田閑照の本では一部分の引用なので、『シレジウス瞑想詩集』上(植田重雄、加藤智見訳/岩波文庫)から全文を引用する。

薔薇はなぜという理由なしに咲いている。薔薇はただ咲くべくして咲いている。薔薇は自分自身を気にしない。ひとが見ているかどうかも問題にしない。

289 薔薇は理由なく咲く。

上田が注目するのは「理由なし(上田の訳では何故なし)」の部分だ。人々は存在に理由や根拠を求める。ふつうであれば、平山の静謐さに、穏やかな暮らしに理由を求める。しかし、ヴェンダースはそれを避ける。それだけでなく、理由として落着できそうな修行の姿や悟りの姿を遠ざける。それがわたしには重要だった。

平山は“無”になろうとしている。しかしながら“有”と強引に争うことも違うと気づいている。先に挙げたハイスミスの「すっぽん」のヴィクターが母親に答えるように「無念無想」をしているというのでは、そもそも無念無想とは程遠い。すこし力を入れれば、それは遠ざかる。透明になりきれず、自己を消しきれずにいる哀しみこそ、この映画を貫いているもので、その大きな哀しみが祈りにみえる。

臨済録』(入矢義高訳注/岩波文庫)──訳者の入矢義高について、上田の『非神秘主義』のなかに素晴らしいエッセーがある──で有名な公案には「無位の真人(すべての地位や肩書きを離れて本来自然のままで真実の人)」とは何かと激しく問われて「乾屎橛(かんしけつ:糞掻き箆)だ」と答えるというのがある。

平山は何故に生きると自分に問い、自分に答えるように目の前の便器を磨いている。そこにこそ私は禅を見てとってしまったのだ。

平山はファインダーを覗かずに木漏れ日を撮影し、仕上がりの良し悪しを厳しく評価する。ファインダーを覗かないということで自分を無化していながら映った写真になにか消えきれないもの(自分)があると破り捨てている。そう見えるのだ。木漏れ日のように、日光と枝葉の関係の中にのみ姿を現すものとして、存在しようとしているように思えるし、三浦友和が演じる友山と興じる影踏みは平山の子どもっぽさを感じさせつつも、影という存在証明を互いに認め合う仕草に思える。そんなふうに影にも透明にも、“無”にもなれず悟りきれもせずとも、ただある。そういう平山に、わたしたちに近づけるような生のあり方を感じた。「平山に会いにいく」とプロデューサーの柳井康治の言葉が何度もとりあげられているが、この感想がフィルムに焼き付けられた修行でも悟りでもない生を象徴しているのではないか。

だからこそ川上美映子のように、平山の姿に感じ入るだけの満たされた観客たちの傍観を疑うより、川上自身がいう彼岸と此岸のあわいにいる平山の生き方を観客は学ぶべきであり、扱いやすい解釈やキャラ付けで平山を眺めてはいけないと思うのだ。

彼岸と此岸とは、永遠と一瞬のことだ。繰り返される日常は永遠のようであり、一瞬の積み重ねのようでもある。禅に見立てて言えば「永遠即一瞬 一瞬即永遠」というような。日日是好日のままに、平山は一年後の朝もアパートのドアから出て空を見上げて微笑むであろう。その日もきっと好い日であろう。取り返しのつかない一瞬を生きながら、それがそのまま永遠を生むような。永遠に続くようにみえて、一瞬ごとに姿をかえる世界のような──木漏れ日のようにたゆたう瞬間。そのどちらでもあって、そのどちらでもない生。

そういう平山の生のもっとも精妙で難解なバランスを見落とさないようにしなければならない。

シレジウス瞑想詩集 上

A. シレジウス (著)

植田 重雄, 加藤 智見 (翻訳)

岩波書店

ISBN:978-4003381915

▶ Amazonで見る

臨済録

入矢 義高 (著)

岩波書店

ISBN:978-4003331019

▶ Amazonで見る

すっかりとりとめなくなってしまった。エックハルトとハイデッカー、禅と京都学派をめぐってテクノロジーを思索する道の寄り道として、今回は映画「PERFECT DAYS」から禅的なものにまとわりつきやすい、それっぽいだけのイメージを探ってみた。
おっと、もうひとつ思い出した。鎌倉にある小津安二郎の墓には「無」の銘が刻まれている。

1 2 3 4 5 6