未知のものを理解しようとする想像力が倫理になる
ーー東京女子大学現代教養学部准教授・大谷弘氏に聞く(3)

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聞き手 都築 正明(IT批評編集部)/桐原永叔(IT批評編集長)

テクノロジーの進化に理想を託すことは、ときに人間疎外の発想に帰着する。科学の発展に伴って経験的事実が重視された20世紀初頭、ウィトゲンシュタインはその趨勢に異を唱え、理性主義にも認識論にも与さない立場をとった。現代に生きる人間として必要な倫理的態度、それは他者を理解して受け入れることではないだろうか。

取材:2023年7月26日 東京女子大学大谷研究室にて

 

 

大谷 弘(おおたに ひろし)

1979年京都府生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻博士課程満期退学。博士(文学)。東京女子大学現代教養学部准教授。専門は西洋哲学。著書に  (筑摩書房)、 『ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学』(青土社)、『「常識」によって新たな世界は切り拓けるか――コモン・センスの哲学と思想史』(共編著、晃洋書房)、『因果・動物・所有――一ノ瀬哲学をめぐる対話』(共編著、武蔵野大学出版会)、訳書として『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇 ケンブリッジ1939年』(共訳、講談社学術文庫)がある。

 

 

目次

科学技術の進歩とプラトン主義

教育者としてのウィトゲンシュタインに学んだこと

倫理的であるとは、他者を誠実に知ろうとすること

 

 

 

 

 

 

科学技術の進歩とプラトン主義

 

都築 ウィトゲンシュタインは進歩という言葉に否定的ですよね。

 

大谷 たしかに彼は進歩という言葉を嫌うのですが、それは科学技術文明がどんどん進む意味での進歩だと思います。おそらく科学が発展すれば社会がよくなるという当時の楽観的な趨勢に懸念を抱いていたのではないでしょうか。20世紀初頭というのは、論理実証主義などに見られるように、科学と進歩とを抱き合わせで考えられた最後の時代でした。その後は、第二次世界大戦が起こったり大衆社会のなかでもさまざまな問題が出てきたりして、留保なしに科学について楽観的なことを言えない時代になってきます。ウィトゲンシュタインは早い時期からそうした懸念を裡に秘めていたのだと思います。

 

都築 思想としてはわかるのですが、彼は工科大学でプロペラの特許を取ったり、小学校教員を辞めてから姉に家の設計を頼まれて凝ってみたりという人でもありますよね。

 

大谷 そうですね。彼のなかで科学技術的な志向と思想とがどのように共存していたのかについては、わからないことも多くあります。科学技術の発展に否定的ではないけれど、手放しで賞賛することには懐疑的だったのでしょう。他方でドストエフスキーのような文学に意味や意義をみていたりもして、さまざまなものが同居している人だと思います。

 

都築 『カラマーゾフの兄弟』を30回読んだという逸話は驚異的です。

 

桐原 ロールズの話題にあったように、ある種の均衡も健全な常識がなければ保たれませんよね。科学技術と思想の一方しか認めなくなると均衡が保たれなくなり、正義というのも成立しづらくなってしまう。

 

大谷 ウィトゲンシュタイン自身はバランスの悪い人だったと思います。けれど素朴なテクノロジー礼賛ではないのは間違いありません。哲学の営みとしては、科学のモデルで進歩を目指すよりも、自分たちのしていることを見つめなおすことに重きを置いていた人だと思います。

 

桐原 科学が形而上学的なものを否定しつくすと、科学による普遍的な統一が行われるとも考えられますよね。

 

大谷 同時代の論理証主義の人たちには統一科学の理念というのがあって、哲学者が交通整理を行いつつ、物理学を基礎として諸科学を体系づける構想をしていました。ウィトゲンシュタインはそれを嫌悪しています。

 

都築 『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎編』では、論理体系において現実化していない矛盾を予防する必要はないとするウィトゲンシュタインにチューリングは「現実化していなくても、矛盾のある算術に基づいて設計した橋が落ちてしまうこともある」と疑問を呈します。それにたいしてウィトゲンンシュタインは「それは物理の問題だ」と応答していますね。

 

桐原 AIをめぐる議論で、物理学者のロジャー・ペンローズは量子脳理論を引きつつ、AIの進化はまだ中途半端だから危険なので行きつくところまで到達すれば素晴らしいものになるだろうと主張しています。それに対して、かつて盟友だったスティーブン・ホーキングは、悪しきプラトン主義でしかないと批判しています。

 

大谷 ペンローズにはたしかにプラトン主義者のイメージがあります。ウィトゲンシュタインは、プラトン主義については批判的です。科学ではなく、きちんと地に足をつけて考えようとする立場ですね。

 

桐原 AI研究においても、科学技術の宗教化の話でふれたように、AIが統一的な理論や普遍性に到達して神性を持つイメージが抱かれることがあります。

 

大谷 哲学の文脈でのプラトン主義は、現実世界とは切り離されたイデアの世界を想定するイメージですが、 そこに到達するイメージになるということですよね。

 

都築 ハラリのいう「ホモ・デウス」はイデア的ですよね。

 

大谷 ウィトゲンシュタインはイデアについてまとまった議論をしているわけではありませんが、批判的な立場にはなると思います。大きく考えると反プラトン主義の哲学者ですが、事実のみを重視する経験主義者でもありません。

 

 

教育者としてのウィトゲンシュタインに学んだこと

 

都築 教育者としてのウィトゲンシュタインに影響を受けていることはありますか。

 

大谷 教育者としてのウィトゲンシュタインには、いまでいうハラスメントにあたる言動も多くあります。小学校の教員をしていたときも体罰をしていたといいますし、ケンブリッジの授業で「こんなことならストーブと話してるほうがましだ」と学生に言ったりですとか。その意味では教育的配慮がないようにみえますが、ノートを読み上げるだけの授業が多かった時代に、いま自分が考えていることを学生にぶつける対話的な授業をして哲学生成の現場に立ち会わせています。いっしょに哲学するという姿勢については、私もウィトゲンシュタインに学びたいし、実践したいとも考えています。

 

都築 時代的な違いもありますし、学生さんたちのバックグラウンドも当時のケンブリッジ大学とはちがいますものね。

 

大谷 ウィトゲンシュタインは、対話的といいつつも自分が圧倒的優位に立って話すことを好んでいたようです。ウィトゲンシュタインの講義を受けた人の回想には、どんな論点についてもウィトゲンシュタインは先に深く考えていて、学生はだれも敵わなかったということが書かれています。私もいま学生との対話のなかで同じことを感じることもあります。専門分野のなかで、自分が論点を提示しているから当然なところもありますけれど。たしかに高い知的能力や好奇心を持った学生たちとハイレベルな対話をして当人にとっても刺激になることは意義があると思います。一方で、哲学の面白さをわかってもらうことにも意味があると思っていますから、身近な話題から哲学的な課題を考えることも大切にしています。

 

都築 先生ご自身は、どんな学生だったのですか。

 

大谷 真面目でしたよ。教室の前の方に座って熱心にノートをとっていたタイプです。

 

都築 現在は東京女子大で教えられているので、かつての先生とは異なる生活世界をもつ学生さんたちとの対話になりますね。

 

大谷 東京女子大学の学生たちは非常に熱心で、専門的な話にも興味を持ってくれます。教えていて楽しいですね。他方、私は、学生が社会に出たときに拠り所となるような視点を身につけてほしいと考えていて、専門的なところよりもより広いところから論点を見つけていくことになりますね。女子大ということもあり、ジェンダーの視点も意識して論じるようにしています。

 

都築 いまは前期のテスト期間が終わったころかと思いますが、ChatGPT対策のようなことはされましたか。

 

大谷 従来どおりレポート提出の形式でした。課題を出すときにChatGPTのことは少し考えましたが、まずは学生を信頼したいということと、こちらから制限を設けるのもよくないと思ったことから、とくに対策することはありませんでした。よい使い方を教えてもらえることも期待して、使い方をレポートに明記すればChatGPTを使ってもよいとは書き添えました。現在、採点中ですが、いまのところ目立ったものはありません。

 

 

 

 

 

倫理的であるとは、他者を誠実に知ろうとすること

 

都築 コンプライアンスやポリティカル・コレクトネスが重視されてきて、LLMがバイアスを増幅する懸念もある一方、逆にLLMをつかって私たちのバイアスに気づかせてもらう場面も考えられます。前回取材したアーティストの長谷川愛さんは、不当に射殺された黒人の顔写真を学習して、銃口の先に該当する人がいると3秒間引き金をロックする「Alt-Bias-Gun」というプロジェクトを行いました。そうでなくても、ChatGPTを参照してから話せばポリコレ的に間違ったことを言わなくてすみます。

 

桐原 ChatGPTのAPIを用いたIR支援サービスはすでにリリースされています。同じように、企業のコンプライアンスチェックをChatGPTにさせるサービスが、すぐに出てきてもおかしくありません。しかし、そうなると人間がコンプライアンスを考えなくなる懸念もあります。

 

大谷 そうした使い方はできるでしょうね。しかし、それは地雷を踏まないようにするというだけです。むしろ、これはよい/これはよくないというデータセットを用いる姿勢は倫理的ではありません。ルールを教えてくれればそれに従うというのでは、健全な判断をしているとはいえませんよね。傷ついている人がいれば、なにに傷ついているのかを知ろうと努めるメンタリティーが、やはり倫理的だと思います。実際的な問題として、私も本を書くときには使用してはならない表現をつかったりしていないかに気を使いますし、編集者に指摘されることもあります。そうしたことも必要ではありますが、ルールブックに載っていなければなにを書いてもよいわけではありません。

 

都築 たしかに明示されていないことやアンコンシャス・バイアスを書き出すことはできません。先日、芥川賞を授賞した市川沙央さんは自身も人工呼吸器使用・電動車椅子使用者で、作中には「息を呑む」といった表現にも傷つくし、本を読むことも健常者中心になっていることが指摘されていました。これは多くの人々にとって持ち得なかった視点だと思います。

 

大谷 そうしたことは、当事者の声に耳を傾けなければ気づくことができませんし、気づかれていないものは、まだルールになっていません。気づくための努力をすることに、倫理の重要な側面があるのだと思いますね。ChatGPTだけではそうしたことに気づくことはできませんから、人間が学習させなければなりません。

 

都築 先生ご自身にも、そのように視野を広げられてきた経験がおありですか。

 

大谷 学生のころは村上春樹をよく読んでいて影響を受けたりもしましたが、年齢を重ねるとピンとこなくなってしまいました。どうしてだろうと考えて、1つ思いあたったことがあります。村上春樹の作品には、政治や大衆社会に流されないで自分の生き方を通していく主人公が登場しますが、彼らがそうした姿勢をとれたのは、結局のところ自分たちがマジョリティだったからではないかということです。マイノリティや多様性についてきちんと考えると、デタッチメントなどできない人がたくさんいることに気づくことになります。学生のころは私も気づいておらず村上春樹的なものに惹かれたのですが、 家族ができたり、さまざまなバックグラウンドを持つ学生がいることを知ったりするようになって遠ざかったのだと思います。たとえばトランスジェンダーの研究者の方々の話を読むと、デタッチメントなんて言っていられないのだろうと気がつきます。

 

桐原 映画「ドライブ・マイ・カー」がアカデミー賞を取ったときに、「IT批評」に私も考察を書きました。村上春樹の原作はデタッチメントそのものでしたが、映画では現代にコミットメントする問題意識で暑苦しいほどのドラマにつくり変えられています。時代的なことを考えると、サルトルがアンガージュマンを唱えた政治の季節が過ぎてから、デタッチメントするスタイルがもてはやされるようになった。ところが最近は、哲学分野では新実存主義が注目されるなど社会にコミットメントする風潮が出てきています。あの映画はそうしたトレンドにシンクロしたことで、アカデミー賞を授賞するようなポピュラリティを獲得したのではないかと思いました。

 

大谷 その考え方は、とても面白いですね。

 

都築 近刊のご予定などはありますか。

 

大谷 新書が出る予定です。道徳的思考について、想像力や感情などさまざまな側面から解説する内容です。バックグラウンドにウィトゲンシュタインはありますが、具体的に取り上げるわけではありません。具体的な哲学者や文学作品などを取り上げながら、そこにどのような思考が現れているのかを批評的に読み解いていく構成になっています。

 

都築 どのような文学作品が取り上げられているのでしょう。

 

大谷 哲学ではしばしば語られる作品ですが『ハックルベリー・フィンの冒険』などを取り上げています。ハックルベリーが逃亡黒人奴隷のジムを逃がすか逃がさないかで葛藤する場面があります。そこでどのような思考が働いているのかを考えたりしています。その他、ディケンズの作品なども取り上げています。『道徳的に考えるとはどういうことか』というタイトルで今秋に筑摩書房から発刊されます。<了>

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