新しい権利と変わらない論理
─学習院大学法学部教授 小塚荘一郎氏に聞く(3)

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聞き手 都築 正明
IT批評編集部

テクノロジーを背景に立ち上がりつつある新しい社会で、キャラクターやアバターに人格権に近いものが付与されることが構想されている。新しい社会ででは現実社会の生きづらさを緩和することが目されているが、現実的課題が払拭されるわけではない。最終回では、法の運用に不可欠であるヒューマンな側面に光を当てる。人を裁くために必要な「嘘の効用」とは――。

取材:2023年4月14日 学習院大学小塚研究室にて

 

 

小塚 荘一郎(こづか そういちろう)

学習院大学法学部教授。博士(法学)。1992年東京大学法学部卒業。千葉大学法経学部助教授、上智大学法科大学院教授などを経て現職。研究テーマは商法、会社法、宇宙法など。総務省AIネットワーク社会推進会議構成員、経済産業省消費経済審議会会長。『フランチャイズ契約論』(有斐閣)、『支払決済法』(共著、商事法務)、『宇宙ビジネスのための宇宙法入門 第2版』(共著、有斐閣)、『AIと社会と法: パラダイムシフトは起きるか?』(共著、有斐閣)、『AIの時代と法』(岩波新書)など著書多数

 

 

目次

著作権法のおよぶ範囲とは

求めるのはペルソナかキャラクターか

CA(Cybernetic Avatars)と共存する社会を目指して

じつはヒューマンでやわらかな法

 

 

 

 

 

著作権法のおよぶ範囲とは

 

――インターネットの黎明期には、著作権の議論がよくなされました。映画が公開されて再び話題になっていますが、2000年ごろのネットユーザーの間ではWinnyを作成した「47氏」こと金子勇さんの裁判費用をカンパすることが流行っていました。

 

小塚  著作権侵害の幇助だというロジックでしたね。もともと、日本は著作権侵害の解釈がとても広いのです。Winnyの件は刑事事件での逮捕だったので非常にセンセーショナルに報じられましたが、日本は民事においてもそうです。たとえばカラオケ店がJASRACに加盟せずにカラオケを流して、お客さんがそれに合わせて歌ったとします。日本の裁判所は、その場合にお客さんではなく、カラオケ店が著作権侵害の主体だと判断しています。そのロジックは、お客さんの歌唱という行為を管理し、またそこから利益を得ているのはカラオケ店だというものでした。裁判官の考えたことはわかります。現に利益が発生しているのにアーティストにお金が入らない。お客さんの私的な歌唱としてしまうと著作権が及ばないので、それはおかしいということでしょう。しかし、このロジックを推し進めていくと、JASRACに加盟していないカラオケ店に機器をリースしたリース会社も、機器の所有者として歌唱行為を支配しており、著作権侵害の主体だということになりかねません。結果として、著作権侵害と言われる範囲がどんどん広がります。権利とはなにかを確立せずに結果の幸福だけ追求していくと、こうなってしまいます。日本の法律の弱いところですね。

 

――JASRAQの話でいうと、音楽教室からも著作料を徴収することになると、音源を聴かずに、ピアノと譜面だけでつまらない練習をすることになってしまう。すると日本の音楽文化を諦めることになりかねません。

 

小塚  その通りではあるのですが、カラオケ店からは著作権料を徴収して、音楽教室は社会的に意義のあることだから著作権料は徴収しないと判断してしまうと、著作権の位置づけが変わってきます。著作権は、社会的に有用なことをしていれば主張できないけれど、夜の楽しみについては主張できるものになってしまう。もっとも、報道されているとおり、最高裁は「管理」や「利益」にこだわらず諸事情を総合考慮した結果だと言って、音楽教室で生徒が演奏するときは教室ではなく生徒の私的な行為であり、著作権侵害にはならないと判断しました。「総合判断」というブラックボックスの中で行為の社会的、文化的な意義を区別したようにも見えます。

 

――たしかに文化の優劣を線引きすることになってしまいます。

 

小塚  レッシグは、アメリカの著作権法で定められたフェアユースをプラットフォーム側が規約で書き換えることを批判していました。日本で裁判官が著作権を書き換えると、もっと大変なことになります。学校教育を目的とするときや点字で書籍を複製するときなど、日本にも引用の例外はあります。これに、音楽教室やカラオケも加えて……と追加しはじめると収拾がつかなくなってしまいます。

 

――以前の違法ダウンロードサイトは、申し訳程度に「研究目的」と記載していましたものね。

 

小塚  私もWinnyの件で金子勇さんを処罰したことがよかったとは思いませんが、著作権については一貫したロジックで説明できなければならないと思います。

 

 

求めるのはペルソナかキャラクターか

 

――同じ時期に、監視社会批判の文脈で地縁・血縁・伝統に縛られない生として、匿名性を確保する自由ということもよく言われました。

 

小塚 VTuberやリアルなロボットをアバターとして使うことも模索されています。日本橋に「分身ロボットカフェDAWN ver.β」というお店があります。ロボットが接客やサーブをするのですが、そのロボットは障がいや重病を持った方々がリモートで操作しています。私は、このロボットとリモートコントロールしているオペレーターとを同一視してよいかどうかを考えています。その理由は2つあって、1つは同一視されたくないという方が多いことです。別の人を演じることで働ける世界を壊さないでほしいということですね。もう1つは、1人が1台を動かしているとは限らないからです。芸能人的にプロデュースすればチームになりますし、複数を1人で動かしたり、ある部分をAIに任せて判断が必要なところは人間が動かしたりすることもありますから。

 

――個別の物語を持たないキャラクターとして一定の権利を付与するということでしょうか。

 

小塚 そうしたものを法的に評価してあげるべきではないかと考えています。アバターの世界に入ることによって、背が高い/低い、太っている/痩せている、男性である/女性である、という属性に息苦しさを感じている方が、アバターで違うものになることで幸せに生きられる世界があるわけです。よく言われるように、美少女系のVTuberのライバーが実は小太りで髪の薄い中年男性だということが露呈すると、世界観が壊れるだけでなくビジネスモデルも成立しなくなってしまいます。そうした使い分けは認めてもよいのではないかと思うのです。

 

――リアル社会の差別が可視化されないバッファゾーンになるわけですね。

 

小塚 ただ、そこに問題がないわけではありません。アバターには圧倒的に美少女キャラが多いのですが、そこには女の子は可愛くていつもニコニコしているものだという差別的なステレオタイプが根底にあるともいえますから。アメリカのメタバースではダイバーシティが重視されています。さまざまな肌の色のキャラクターがいるのですが「あなたは日本人だからイエローの肌のキャラクターを使いなさい」と言われたらどうでしょうか。しかし私が、浅黒い肌のキャラクターを使ったら、現実社会のブラックフェイシングと同じになってしまうとも考えられます。そうだとすると、使えるアバターはリアルな人間に近いものにするというルールを設けなければなりません。

 

――そうすると、リアルの息苦しさが再生産されたり拡大されたりする可能性もありますね。

 

小塚 難しい問題ですが、私は違う世界で違う存在になれることを法的に受け止める視座があってもよいのではないかと思いはじめています。キャラクター権のような発想ですね。

 

――同一性の煩わしさもあります。たとえば先生が、どこでも大学教授としての振る舞いを求められると、すごく息苦しいのではないかと拝察します。

 

小塚 それはそうです。先日も卒業生から「先生もチェーン店の牛丼を食べることがあるのですか」と訊かれて驚きました。学生からすると、想像がつかないようなのです。「週に1回は行っているよ」と答えたら驚いていました。

 

――そもそも社会的な人間というのは匿名を含めてペルソナをつかい分けているわけで……。

 

小塚 その考え方が欧米人には通じないのです。「ペルソナを使い分ける」というのは、物事を関係性で考えるアジア的発想なのです。1人の人が、AということもBということもCということもする――そのことを明らかにしないでほしいというのが海外の発想です。日本人的にいうと、Aをしている私とBをしている私とCをしている私がそれぞれ別のペルソナだと言いますよね。日本人のそれぞれのペルソナが1つであることを隠そうとするけれど、欧米では人格が1つだという前提なので、外的なことを隠してほしいということになります。言っていることは同じなのですが、発想が逆なのです。

 

――そのあたりから、アバターの同一性についての認識も異なってきそうですね。

 

 

CA(Cybernetic Avatars)と共存する社会を目指して

 

――先生のおっしゃるキャラクター権を用いると、どのようなことができるでしょう。

 

小塚 現在、科学技術振興機構が実施しているムーンショット型研究開発事業の目標1として「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」のプロジェクトが進行中です。これは、2050年までにさまざまな人が自分の能力を拡張したアバターやロボットを用いて生活する社会を構想するものです。

 

――先ほどの「分身ロボットカフェDAWN ver.β」のように、さまざまなバックグラウンドを持つ方の社会参画だけでなく、生産能力も視野に入れたプロジェクトになるのですか。

 

小塚 背景としては、少子高齢化や労働生産人口の減少があります。AIにより身体的能力や認知能力、知覚能力を技術的に拡張したCA(Cybernetic Avatars:サイバネティック・アバター)と人間とが共進化して、サイバー空間とフィジカル空間を行き来しながら、新分野の開発を目指しています。

 

――技術面だけでなく、社会的コンセンサスが重要だと思いますが、先生は法制度面での役割を担われているのでしょうか。

 

小塚 はい。CA法の醸成に関わる研究をしています。

 

――2050年に実施するまでの中間目標はあるのでしょうか。

 

小塚 2030年をマイルストーンとして、CAの安全確保と社会受容の基盤を構築するとともに「倫理・経済・環境・法・社会(Ethical Economic Environmental Legal and Social Issues:E3LSI)」の各課題に対応できることを目指しています。そのために、2025年までに研究制度を構築することとしており、私もその一員として参画しています。

 

 

ムーンショット目標1が構想する2050年のサイバネティック・アバター社会(出典:2023年 科学技術振興機構(JST))

 

 

 

じつはヒューマンでやわらかな法

 

――「IT批評」の編集長エッセイ(2022.12.05 Le essais「ワールドカップが求めた数学的な正しさと、ポストヒューマニズムの行方」)にも書かれているのですが、2022 カタールワールドカップのときに人間の審判の判定よりもVARによるジャッジが尊ばれたことは、人々が人間の判断よりもAIによる数理的な判断を信じるようになったことを象徴する出来事だったように思えます。そう考えると、法曹分野においてもリサーチ以外の判断を機械化していく可能性もあるように思えるのですが。

 

小塚 VARが優先されたのは、物理的なジャッジメントだったからです。たとえば交通事故の瞬間を2度見ることはできませんが、さまざまなデータを用いれば当時の状況を再現することができます。こういう点で、AIを法曹分野で活用する可能性は大きいかと思います。そうでない法律の判断については、法律家はロジックによるアプローチで結論を導き出します。ディープラーニングは、相関を見いだすことに強みを持っていますが、中間層で何をしているのかはわからないのでロジックを見出すことはできません。もしそういうシステムを法律の世界に使うとなると、法律というものが根本から変わってしまいます。

 

 

 

 

 

――たとえば個人についてのデータを分析して、さまざまな属性から犯罪傾向を判断して裁決をくだすようなことですよね。中間層に畳み込まれたロジックはあるものの、私たちが辿って納得できるものではない。

 

小塚 法律家も、法解釈のロジックが実状と乖離しているのではないかという議論はしています。『嘘の効用』(末弘嚴太郎著/日本評論社)という名著がありますが、裁判官が法の条文に即して判決を下していても、実際には現状を勘案してある程度は法律を婉曲して――つまり嘘として――使うことがあります。それでも、法律を使って表面的なロジックを維持しているところに法制度の大事な要素があるのです。そこをAIに置き換えると、その大事な要素が完全になくなってしまうことになります。リーガルテックが進んで、裁判官の代わりにAIが法適用をすることになると、法が法でなくなってしまう。

 

――法律というと、私たちは四角四面なものだと思いがちですが、実はヒューマンな運用で成り立っているのですね。

 

小塚 法を文字どおりにあてはめるだけでよければ、機械に任せてしまえばよいということになります。しかし法律のロジックには人間的なものが多分に含まれています。そして、こうしたロジックにこそ意味があるのです。先ほどのVTuberの話のように、「美少女といっても本当はおじさんがしてるんでしょ」といった途端に世界が崩壊してしまう。そうなると、剥き出しの金と権力が争う世の中になってしまいます。

 

――そう考えると、ヨーロッパのようにローマ法のころから法に基づいて議論をしながら自分たちのルールをつくってきた歴史を持つ人たちと、常にルールを与えられてきた日本とでは、AIについての考え方も異なりそうですね。

 

小塚 たしかに、日本社会は、AIについても案外すんなりと受け入れてしまうかもしれません。(了)

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