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想像力がテクノロジーを奪う
1 オノ・ヨーコの芸術作品からインスパイアされて生まれた「Imagine」
かつてジョン・レノンは「Imagine」と唄った。諍いも争いもまったくない世界を想像できるじゃないかと。「Imagine」のメッセージが夫人であるオノ・ヨーコの芸術作品からインスパイアされたのは有名な話だ。ヨーコは詩集『グレープフルーツ・ジュース』のなかで想像の力を知ったエピソードを述べている。それは戦時中の疎開地で、幼い弟妹とした晩餐会ゴッコにある(安田財閥の一統につらなるヨーコたちがビフテキを想像するというセレブリティは鼻につくのだが)。想像の晩餐は彼らを十分に幸福にした。
「戦争のない世界を想像してごらん」という歌詞は「世界平和など無理な話だ」「政治が××だから」「経済が××だから」といった常識的な論理から自由になれると諭す。「そんなことできない」と思い込む私たちの心はどんなに不自由なことか。想像力はいつでも私たちを自由にする。
想像力とはいったいぜんたい何だ? 私たちは普段「人の気持ちを考えろ」といったふうに、想像力を求められる。人の気持ち。それを「他者への想像力」とはいえば難しくなるが、要は自分に置き換えて他人を慮ることで想像を働かすのだ。上司の気持ち、部下の気持ち、お客さんの気持ち。相手の立場に寄り添うことに想像のヒントがある。
しかし、そうした想像力には客観性はない。ユクスキュルの古典的名著『生物から見た世界』は、私たちの想像力がただの独りよがりだと教えてくれる。この名著のインパクトは生物学のみならずハイデガーを通じて哲学に影響を与えたことでも知られる。時間さえも主観の影響下にあるからだ。
ユクスキュルは、「環世界」という概念で生物には固有の世界像、時間感覚があることを説く。生物と私たち人間とは世界像も時間感覚もまったく異なる。そこには客観的な指標はない。だから世界はきわめて主観的なものだといえる。私たちの想像力には主観の限界がある。
以前、私はシンギュラリティ後のAIをどのように考えるかについて、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの『ソラリス』の惑星の知性を引き合いにして原稿をものした。二度にわたって映画化(タルコフスキーは東京の首都高速を未来都市に模して撮影した)された、この世界的名作で、知性は私たちの考えうるどのような形態も持っていない。レムは人間が知性というものを考えれば、擬人観に囚われてしまうと切ないまでに残酷に描きだす。擬人観とは、ものごとを人に擬えてしか想像できないことをいう。たとえば「森の木々が語りかけてくる」といった想像だ。木々が語りかけることが非科学だというのでなく、木々が言語を話すとすれば、それは人間の言語と同じようなものだと信じる無邪気さだ。
ユクスキュルがダニの世界を思い描いたように、主観を離れて他者を想像するのは容易ではない。『ソラリス』において、惑星ソラリスという知性体の目的も意味も未知のまま残される。それはそのまま人間の知性の限界でもある。
私たちは人間の知性以外の知性を知らない。だからSFの世界でしか擬人観を超えた知性を想像できないのだ。そんな私たちは近い将来、AIという人間以外の知性に出会おうとしている。
AIとは何か? 知性とは何か? なけなしの想像力で手探りしてみるほかない。
惑星ソラリスの知性について改めて考え直したのは、『LIFE3.0』を読んだからだ。このなかで、MITの物理学者マックス・テグマークは生命のあり方を3つの段階に分けて説明する。
生殖、遺伝といった自己複製のみが可能な生物学的な段階である「生命1.0」、文化文明を設計する知的な段階である「生命2.0」、そして生命そのものを設計する技術的段階である「生命3.0」である。
生命3.0の段階を達成させる汎用型AIとは、生命2.0段階に止まる人間の知性を凌駕するのみならず、まったくの未知の存在になりうるものだ。そのとき、世界は人間の知性から自由になる。
それはいったい、いかなる世界か? テグマークは広範な知見をもとに論じる。想像力の限界をつきつめるかのような思考過程になる。
4冊の本から、想像力を巡って考えてきた。
テクノロジーと想像力の関係はつまるところ、超知能AIについて思考することに違いない。人間に想像力があるなら、超知能AIの誕生にじゅうぶんに備えておくことはできるはずだと、私はわずかな希望を持っている。
みなさんはどうだろうか?