テクノロジーが拓いた個人が世界とつながる時代
iU(情報経営イノベーション専門職大学)学長・中村伊知哉氏に聞く 第2回

中村氏がディレクターを務めていた少年ナイフは、海外のファンに“発見”されることによって世界中の多くの人々をエンパワーした。テクノロジーの発展によって、今では誰もが創造し、世界とつながることが可能になった。
取材:2025年2月10日 iU竹芝サテライトオフィスにて
![]() |
中村 伊知哉(なかむら いちや) iU(情報経営イノベーション専門職大学)学長 京都大学経済学部卒業。慶應義塾大学で博士号取得(政策・メディア)。1984年、ロックバンド少年ナイフのディレクターを経て旧郵政省入省。1998年、MITメディアラボ客員教授。2002年、スタンフォード日本センター研究所長。2006年、慶應義塾大学大学院教授。2020年4月、iU学長に就任。著書に『超ヒマ社会をつくる』(ワニブックス)、『ポスト2020の都市づくり』(共著、学芸出版社)、『コンテンツと国家戦略』(角川書店)など。 |
目次
少年ナイフがエンパワーしたもの
桐原永叔(IT批評編集長、以下──) 中村さんはもともとミュージシャンになりたかったと著書に書かれていますが、子供の頃は何に関心をお持ちだったのですか。
中村伊知哉氏(以下中村) 小学生の頃は、漫画家になるか野球選手に憧れる普通の男の子だったんです。大学に入ってロックをやり出して、プロでやれるかなと思ってたんすけど、周りを見るとすごい奴ばっかりなんで、これは無理だなと思って諦めました。
──その年代で京大だとローザ・ルクセンブルグ*2とかでしょうか。
中村 2学年上にKYON*3がいて、2学年下にどんと*4がいました。僕も一緒にベースを弾いていました。いつも軽音のボックスのとこに、名前は知らないんですけどひっくり返ってラッパを吹いている先輩がいて、急にいなくなったんです。あの人死んだんかなと思ってたら、何年か経ったらテレビに出ていて、近藤等則*5さんだった。後で振り返ってみると、周りにいた人たちはだいたいプロになっています。
──そうなんですね。少年ナイフ*6をプロデュースするきっかけはなんだったんですか。
中村 どんとから、「大阪の草むらでギター弾いてる女の子がいて、絶対あんた好きやと思うから見に行ったほうがええで」って言われて見に行ったら、ろくにギターを弾けない子が“何億もの中国人が自転車に乗ってやってきた”みたいな変な歌を歌っていて。これは面白いって、京都のレコード屋のおっさんが、レコード出そうって言い出して、200枚を自主制作したのが最初です。それが日本にレコードを買いに来たオタクのアメリカ人やイギリス人が自分の国に持ち帰って、ラジオで流したら、向こうで受けちゃった。その後、いろんな音楽業界の人たちから、どういうプロモーションしたのって聞かれたけど、何もしていません。
──その少年ナイフのエピソードは、東洋人で、女性でしかも楽器が上手くない人たちというグルーバルでみたら超のつくマイノリティが、コンテンツというか表現することのオープンな力でどんどん世界を味方にしていく力強い例と考えています。
中村 アナログ世代ですけど、かなりいろんな人をエンパワーしたんだと思いますよ。あれでいいんだ、みたいに。彼女たちがニルヴァーナにすごく好かれて、世界ツアーに連れていかれたのって、非常にシンプルで、ストレートでスリーコードしかできないし英語も別にうまくないっていうのが、遠い世界からぽっと出てきた面白さだったと思うんですね。それでいいんですよ、音楽は。ロックも超絶技巧みたいな世界に入ってきていたから、そんなんできないわってみんな思っていたところに、すごくタイミングよく出てきたということなんでしょう。
*2 ローザ・ルクセンブルグ:1983年から87年まで活動していた日本のロック・バンド。その後、BO GUMBOSを結成するどんとが在籍していた。
*3 KYON(1957-):本名は川上恭生。京都大学卒業。ギタリスト&キーボーディストとしてBO GUMBOSに加入。
*4 どんと(1962-2000):本名は久富隆司。京都大学中退。ローザ・ルクセンブルグを経て1987年にBO GUMBOSを結成。ボーカルとギターを担当。
*5 近藤等則(1948-2020):京都大学卒業。トランペッター、プロデューサー。80年代に結成したIMAバンドで人気を博す。
*6 少年ナイフ:日本のガールズバンド。1981年に結成、現在も活動中。結成当時、中村伊知哉氏がディレクターを務めていた。