ChatGPTから考える身体と「心」

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

ChatGPTが話題をさらっている。これまでにない文章作成の能力をみなのものにし、この分野にさほど興味のなかった人たちにも触れられるようになって、AIの先端技術が人口に膾炙していく様を目の当たりにしている。

 

 

目次

ChatGPTは前衛か?

意味という中心なき人間らしさ

人工知能ではなく人工生命

はじめに行為(おこない)ありき

 

 

 

 

ChatGPTは前衛か?

 

 静かに浮かぶ月の表面には、
 天ぷらが浮かんでいる。
 揚げたての海老や野菜たちが、
 まるで宇宙の宝石のように輝いている。

 天ぷらを揚げる音が聞こえるかのように、
 月の表面には静けさが広がる。
 天ぷらの香りが漂い、
 宇宙空間に広がっていく。

 夜空に浮かぶ天ぷらの島は、
 人々の心を和ませ、
 平和な時間を運んできてくれる。
 静かに浮かぶ月の表面に、
 天ぷらが浮かぶ。

 

 

これはChatGPTに「月に天ぷらが浮かぶという詩を詠んでください。」と入力した、その答えだ。よくできているとも思わないし、ましてや感動などとは程遠いが、詩の体を成していることに驚きを禁じえない。ある種のハプニングアートのような面白ささえ感じる。
「カットアップ」という詩作技法は、ビート詩人のウィリアム・バロウズの小説『裸のランチ』(鮎川信夫訳/河出書房新社)に登場することで有名だが、偶然性から新しい美を導き出そうとした運動は前世紀はじめのアバンギャルド芸術にまで遡る。『ダダ宣言』(小海永二、鈴村和成訳/竹内書店)を著してダダ運動を創始したトリスタン・ツァラは「帽子の中の言葉」という文章を残しているが、それは新聞記事を単語ごとに切り刻んで袋に入れて混ぜ合わせ、ランダムに取り出して詩を為す技法について書かれている。カットアップでは、脈絡もなく並べられた言葉が文脈を形成して意味を発するようになる。人為から決して生まれない意味内容にかつてない新しさ、美しさを人は感じることができる。
ダダやシュルレアリスムなどアバンギャルド芸術は近代的理性からの逸脱を図る美術の革命だった。同じ時期、音楽でも調性という理性に反する無調音楽や十二音技法が生まれた。これまでのこの連載でテーマにしてきたものに従えば、それはまさに神の死を経て訪れた人間(ヒューマニズム)の時代さえ終焉させようとする時代の幕開けと軌を一にする。人間理性の裡に埋もれていた“狂気”を掘りおこすことが、新しい時代の芸術の指針となったのだ。偶然性や即興性といった計画されない、あるいは操作されない創作に新しい人間像を見出そうとしていたと見れば、これさえもナイーブなヒューマニズムの範疇なのだが──。
芸術にはこうした偶然性や即興性はいつも求められている。なにも前衛的なものに限らず、たとえば20世紀のポップミュージックの偉大なイコンであるディビッド・ボウイも初期のコンピュータを使用してランダムに選ばれた言葉から作詞を行なっていたし、ボウイのプロデューサーでもあったブライアン・イーノは「オブリーク・ストラテジーズ」という手法を使う。これはさまざまな指示や助言が書かれた113枚のカードで、創作に悩んだり行き詰まったりした際に、1枚を引き、そこに書かれた指示や助言に従うというものだ。たとえば「simple subtraction(ただの引き算)」といった、脈絡もその際の創作活動とも無関係な予期せぬ助言に従うことで、創作的な窮地を打破するのだ。この指示であれば、多くの創作アイデアの選択肢を意図して減らしてみるといった行動につながるだろう。「オブリーク・ストラテジーズ」はアプリでも提供されている。
テクノロジーに依拠しつつ偶然性や即興性を取り込むという手法では、ChatGPT の詩作も同じだろう。AIを介した創作がどの程度に人間的あるいは非人間的であるかはさまざまに議論の余地があるし、著作権はどこに属すかなんという議論まである。ちなみに科学誌「Nature」はいち早くChatGPTで書かれた論文は受け付けないと表明している。これは著作権の問題が曖昧だからだろう。
しかし、ChatGPTが新たな芸術のツールや技法になりうることは、すでにネットにあふれだしたChatGPTを使った作品をみれば明らかだ。

 

 

裸のランチ
ウィリアム・バロウズ 著 鮎川信夫 訳
河出文庫
ISBN:978-4-309-46231-8

ムッシュー・アンチピリンの宣言──ダダ宣言集
トリスタン・ツァラ著 塚原史 訳
光文社古典新訳文庫
ISBN:978-4-334-75209-5

 

 

 

意味という中心なき人間らしさ

 

ChatGPTはイーロン・マスクとも関わりのあるOpen AIが開発した言語モデルGPT-3を搭載したチャットボットである。GPT-3は「Transformer」というディープラーニングの手法を用いて開発されている。1750億個のパラメータと5兆個のコーパスを使い、ひとつの単語から次にでてくる単語を予測する自己回帰型言語モデルを学習させたことで、これまでにない自然な言語生成を可能している。まるで人間のように文章を生成するので瞬く間に世界に広まった。Transformerを活用した言語モデルは今後どんどん発表されるだろう。それらはGPT-3を凌駕する可能性を十分に秘めいている。
東京大学の池上高志教授は「IT批評」の取材で、GPT-3は言語というものが意味を発する仕組みに対するひとつの示唆になっていると話した。言語は、単語ごとの意味、意味と意味との関係によって、つまり部分の積み重ねによって全体が意味を為すのではなく、単語と単語の相補的なグループによって意味を人のほうが “解釈”しているという可能性だ。それはカットアップでつくられた前衛詩を解釈するのと原理的には同じだ。
Chat GPTが生成した文章を私たちが自然だと感じるのは人間も同じように言語を扱っているせいなのではないか。意味の繋がりから全体を理解するのではなく、単語の集合を好きに解釈し全体を創造しているのかもしれないからだ。
意味という中心なき単語の集合を操って人間っぽくなるChatGPTは、実が人間も単語の意味など操っていないのかもしれないという思わせる。
コーパスとなにげなく言ったが、コーパスとは言語研究のためのデータベースのことで、ある単語に付随して登場する単語をグループとしてデータベース化している。かいつまんで言えば、意味の類似したグループではなく、いっしょに使用されることが多い単語のグループということである。相性のよい単語を集めたものと考えてもいい。もしかすると文体というのも意味の連携から生まれる総体的機能ではなく、ただ相性を調整したのみの単語の集合なのかもしれない。
文体はある種の創発の産物であり、その意味やメッセージは、だから頭だけで理解できるものではない。それこそ、私たち自身の身体によってしか文体が発する意味やメッセージを受容できないのではないか。
相性のよい単語をつなげていくと自然だと感じられる意味を生じるのだとすれば、Chat GPTの詩作は「カットアップ」という技法とは真逆のものといえる。「カットアップ」はむしろ相性のよい単語を避ける──偶然性を取り込み事件性を高める──ためにつくられた技法だ。そういう意味では、ChatGPTに対する驚きは前衛詩に対するものとは別とみたほうがよいだろう。ChatGPTは意図して人為性を学習しているようだからだ。
池上教授も『現れる存在 脳と身体と世界の再統合』(アンディ・クラーク著/池上高志、森本元太郎訳/ハヤカワ文庫NF)の「文庫版監訳者あとがき」で、GPT-3で詩をつくると述べている。AIが連ねた言葉はやはりまだ私たちの想定からズレている。その分だけ詩的な新しさを与えてくれるだろう。こんなものは詩ではない。こんなものは偶然性も即興性もないというのは簡単だが、それは短絡にすぎる。
哲学者アンディ・クラークの『現れる存在』は認知科学の分野を革新した世界的な名著といわれている。邦訳はずいぶん遅れたのだが、現在でもじゅうぶんに核心をつく内容なのはいうまでもない。
クラークは、心や認識を脳内のものでも、個々の人間のものでもなく、環境との間に生じるものとして論じる。脳という中央集権によって、私たちは自分自身を操作しているのではなく、身体の部位それぞれが環境との接触のなかで最適な情報を最小の効率で取得して反応していると考える。これはまるで汎神論のような世界観で、こうした議論にはスピノザが登場することもあるのはそのせいだが、ここで紙幅がない。
『現れる存在』で印象深いのは、物理学者のリチャード・ファインマンのエピソードだ。ファインマンはある歴史家との会話で、理論は頭の中で思索され紙に書かれたのではなく、紙の上で紙と手によって思索されたという内容の話をする。クラークはそれを「心の拡張」という。ほかにも興味深い例がある。マグロの推進力はその骨格や筋肉が生み出す物理的な力では不可能なほど大きい。マグロの推進力は尾鰭がつくる2つの方向の水流の相互への反発によって爆発的な推進力を得ている。マグロは脳から尾鰭に指示して、その力で推進しているのではなく、尾鰭が水流を身体の一部として推進力を得ているということだ。
ファインマンのエピソードもマグロの例も、重要なのは紙や水流といった環境を“利用”しているわけではないことだ。環境そのものが認識となり行為となっているのだ。
身体とは、単なる物理的な身体をふくんだ、身体によって構造化された環境全体なのだ。

 

 

現れる存在──脳と身体と世界の再統合
アンディ・クラーク著 池上高志訳 森本元太郎訳
早川書房
ISBN:9784150505912

 

 

人工知能ではなく人工生命

 

クラークは著作でロボティクスの研究を参照して思考を進めていくのだが、もうひとつ注目した、というか、私がこれまで見落としていたのは「人工生命」という言葉だ。クラークは「人工知能(AI)」ではなく、「人工生命」という。知能ではなく生命だ。この連載でも触れてきたポストヒューマンに通じる研究のほとんどは人工知能を対象にしていたのに、ここでは人工生命が対象となる。
では、人工知能と人工生命で何が違うのか。
人工知能が永遠を目指す物に対し、人工生命はその名の通り有限なものである。私はAIベンチャーにいるせいで、どうしても人工知能に関心が集中してしまうのだが、視野を広げて考えなければならないのは人工生命のほうである。
池上高志教授の書作タイトルも『生命と意識への構成論的アプローチ 動きが生命をつくる』(青土社)である。生命なのだ。同じく東大の松尾豊教授がAIの進化の過程、次のブレークスルーとして身体をもつことを挙げていたことを思い出す。ただし松尾豊教授は身体をセンサーとして取得した複雑で多様なデータを学習することでAIが進化するとしているのに対し、池上高志教授は身体が生み出す運動の形式やダイナミクスが生命をつくりだすという。似ているようで大きな違いだ。身体は知能に隷属する道具ではないだ。むしろ知能のほうが身体より下位にあるようなイメージに近いし、クラークの議論までふくめれば身体を含む環境そのものに知能は漏れ出している。
構成論というのは作ることによる理解という意味である。生命をつくることで生命を理解しようというアプローチだ。サイエンスよりもエンジニアリングと言い換えてもいいかもしれない。ゆえに池上高志教授も大阪大の石黒浩教授とアンドロイド“Alter”を制作する。共著である『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』(講談社)は、従来の人間観を改めるようなメッセージにもなっている。
池上教授の時間的秩序という考えは、まさに有限である生命の根拠となっていると思った。「IT批評」の取材でも、この時間的な有限性こそが倫理が生まれた理由ではないかと質問も浮かんだ。有限である生命を維持するためにこそ、私たちは利他性や倫理あるいは宗教を必要としたのではないか、と。
倫理が心を必要とするもので、心は身体感覚が環境と相互に侵食しあうなかにあるだとすれば、倫理もまた身体の一部となるものなのだろう。

 

 

動きが生命をつくる
池上高志 著
青土社
ISBN978-4-7917-6351-1

人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか
池上高志・石黒浩著
講談社
ISBN978-4-06-220385-2

 

 

はじめに行為(おこない)ありき

 

「はじめに言葉ありき」とは聖書(ヨハネの福音書)の一節として有名なものだ。神の言葉、神の知性によって世界は生み出されたということだ。これに対し、文豪ゲーテの『ファウスト』1・2(相良守峯/岩波文庫)では、「はじめに行為(おこない)ありき」となる。知性より身体と言っているかの如く、ファウストは馬の脚をもつメフィストと契約し若い肉体を得る。
ファウストが若返って得たのは時間であり、失ったのは倫理だったかもしれない。グレートフェンへの仕打ちこそはその証だろう。なにやら、私が想起するのは人工知能と人工生命の違いであり、このところ記事にしてきたポストヒューマンを考えるヒントなのだ。
身体や行為が心や意識を生み出しているという議論で、最新の書籍は『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』(ニック・チェイター著/高橋達二、長谷川珈訳/講談社選書メチエ)だ。著者であり、イギリスの認知科学者・行動科学者であるチェイターは、私たちの心理というものがほとんど身体反応に対する即興的な解釈にすぎないと論じる。ゆえに深層心理や潜在意識などというものは知能によって捏造された“でっち上げ”だという。だとすればアヴァンギャルド芸術が発見しようとした人間の裡の“狂気”もまた捏造されたものだろうか。とはいえ、芸術はそもそもが捏造の仕業ともいえ、アヴァンギャルド芸術の価値はなんら損なわれはしないはずだ。
チェイターの議論にかなりの程度の説得力があると感じるのは、私自身も自分の心理や感情が発生的なものではなく創作的なものだと考えていたからだが、そういう考え自体もさほど珍しくもないだろう。身体的負荷、たとえば運動後のドキドキを「不安」と解釈して、そういう感情がつくりあげられるというわけだ。
私たちは何らかの意味を理解したり思考したりするのではなく、即興的に意味を生成しているだけなのだというメッセージも、私自身の読書体験から思うところがある。私は昔から本を読むことは、その本の内容を理解することよりも、本を読みながら思い浮かんだことを考え連ねることだと感じてきたからだ。それこそ即興的に連想を重ねることが、私にとっての読書だった。だから、著者の言いたいことやメッセージよりも重要なのは、そのときその瞬間に、その本のそのページを読むことで創発される思考なのだ。
私にとって読書は身体の経験なのだ。身体の経験とは行為と環境の創発であり、そこには偶然性が伴われる。そして、この偶然性が制限不能な身体の経験を変化させていくという循環となる。これは、ファインマンが紙の上で紙と手によって思索したのと同じように、環境に思考が漏れ出していくということであり、優れた思索にはこうした傾向があると考えている。
身体経験の知性という点では、私はもう1点、禅宗の身体修養を思い浮かべる。禅の公案には、庭掃除(作務)の最中に悟りを開く僧が登場したりする。むしろ瞑想によって悟りを開くよりも何らかの行為中に悟りに至る話のほうが多い気がする。
悟りは自らの身体をふくむ環境のなかで尖らされた思索の臨界点の先にあるものではないかと思う。

 

心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学
ニック・チェイター著 高橋達二・長谷川珈訳
講談社
ISBN:978-4-06-524106-6

 

 

今回はまったく首尾一貫しない内容になってしまった。収拾がつかない。
エクス・マキナでも登場させて終了しよう。Chat GPTに結論を書くように指示してみると、以下の結論を授かった。

 

Chat GPTは、人工知能の分野で非常に重要な存在となっており、その文章作成能力は今後ますます発展していくことが予想されます。また、Chat GPTを通じて、人工知能の技術がますます一般に浸透し、私たちの日常生活においてもますます重要な役割を果たすことが期待されています。これからもChat GPTの発展に注目していくことが必要であり、人工知能の進化に期待することができます。