テクノロジストが夢見る国家と奇妙なニューロダイバーシティ
第5回 ニューロダイバーシティの生政治(バイオポリティクス)
ニューロダイバーシティは本来、発達障がいを欠陥ではなく人間の自然な多様性として捉え直すための概念であった。しかし近年、その語りはしばしばイノベーションや生産性向上と結びつけられ、特定の能力を持つ人材を発掘・活用するための言説へと変質しつつある。本節では、ニューロダイバーシティをめぐる典型化と選別の問題を検討しながら、脳科学、労働市場、テクノロジーが交差する場所で生じる新たな生政治の構造を読み解く。
目次
典型化して理解することの暴力性
“ニューロダイバーシティ”という用語は、ASD(Autism Spectrum Disorder:自閉症スペクトラム)当事者でもあるジョディ・シンガーがメーリングリストでつかいはじめ、のちに彼女の学位論文“Odd Girl Out:The Individual and Society”において概念化したものである。ここでは、自閉症などの発達障がいは欠陥や病気ではなく、人間の脳や神経における自然な多様性の1つであること、また障がいを個人の治療すべき問題とするのではなく、定型発達(ニューロノーマル)を前提として作られた社会や環境の方に障壁があるとする考え方ということが示されている。
前節で述べた“パランティア社的”ニューロダイバーシティは、ASD当事者の行動様式を典型化──コミュニケーションにおいて独特なパターンを持ち、言葉や数字を慎重に扱い、特定の対象を深く追求するというような──し、定型発達者とは異なる属性を持つとして扱うものだ。換言すれば、デジタル人材として利用可能な特性として能力に還元し、単純化して理解しようとするものだ。「生産性の向上」や「イノベーションの促進」といった言葉が冠せられるのも、その謂であろう。繰り返すまでもなく、そこには多様性の尊重ではなく、選別の意図が隠すことなく顕れている。ASDの“スペクトラム(spectrum)”とは連続体のことであり、境界線がはっきりせず、さまざまな要素が境界を設けずつながっている状態を指す言葉である。定型発達とも連続しているそこに選別の意図を差し込むことは、自家撞着そのものである。本サイトで2025年8月に話を伺った東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構特任教授の長井志江氏も、認知にグラデーションがあることを指摘している。
日本においても、ニューロダイバーシティは2018年より経済産業省が推進している“ダイバーシティ経営”に水路づけられている。経済産業省はダイバーシティ経営を「多様な人材を活かし、その能力が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」と定義している。「多様な人材」とは、「性別、年齢、人種や国籍、障がいの有無、性的指向、宗教・信条、価値観などの多様性だけでなく、キャリアや経験、働き方などの多様性も含みます」のことであり、さらに「多様な人材の活躍は、企業が、少子高齢化の中で人材を確保し、多様化する市場ニーズやリスクへの対応力を高め、競争力を強化するために重要であり、ひいては、日本経済の持続的成長にとって不可欠です」とされている(https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/diversity/index.html)。要はこれまで賃金労働者ではなかった人々を労働市場に取り込むことで、人手不足を解消しようという目論見である。2010年には第2次安倍政権が「女性活躍社会」「人生一〇〇年時代」「外国人受け入れ」を謳ったが、現在それぞれがいかなるバックラッシュをもたらしているかを鑑みると、先行きを楽観視はできない。
ニューロダイバーシティの生政治(バイオポリティクス)
前回「作者の死から読者の死へ──生成AI時代の読書を考える」においてディスレクシアのある人の脳と定型発達者の脳とを比較すると、脳構造に違いをみることができる、と記したように、たしかに脳機能イメージングをしてみると、非定型発達者の脳と定型発達者の脳とは異なるパターンを示す。しかし、同じく前回記したように、脳というのは可塑的なものである。脳スキャンでみえる構造的差異は、必ずしも機能障害を意味しない。トランスジェンダーでクィアであり、ASD当事者でもあるニック・ウォーカーは、定型発達者を“ニューロティピカル”と、それ以外の多様な特性を持つ人たちを“ニューロマイノリティ”と称して、差異を相対化して優劣と見做さない考え方に加え、ニューロマイノリティについて人種や文化、ジェンダーや性的指向をめぐる社会的ダイナミクスと同様に、不平等や社会的な抑圧と行った社会的な権力関係が含まれていることを示した。先に述べたアスペルガー症候群の“発見”まで遡ると、社会的構築物としてのニューロマイノリティ像は首肯できるものではある。
医療人類学者フランシスコ・オルテガは脳科学の知見がアイデンティティを脳と関連づけられることを“脳化(Cerebralization)”として警戒する。そのうえで従来の当事者運動が、人々には「脳の違い」があるのだから「欠陥」ではなく「差異」である、したがって社会はその差異を尊重すべきだという図式になっていることを指摘する。ここでは、医学による客観的な差異が参照されるために、明確な境界線をしるしづけるということにもなる。それにたいしオルテガは、人間を脳で説明することで人格を脳に還元し、社会問題を神経科学で理解することになるとする。そこでは、脳の生物学的な差異は肯定するにしても、他のさまざまな多様性があるなかで、脳の差異のみに課題を固定化することが危惧される。また個人の生きかたやアイデンティティが変化しないものとして捉えることは、事態を固定化する現状追認にすぎないという懸念もある。
テクノロジーにより多様性理解が医学に統合されると、選別もまた容易になり拡大される。ニューロダイバージェントが、一部は有用な人材として重用されつつ、他方でそこから溢れ落ちることで“ニューロダイバーシティ採用”という企業ブランディングに用いられるという経済的価値へと還元されるとき、ニューロダイバージェントの間に分断がなされる。また差異が固定化されデータベース上に刻印され、政治の管理下におかれると、それは生存への権力──フランクフルト学派が一貫して抵抗しようとしたものである──として機能する。テクノロジーを国家に援用しようとするパランティア社の理想は、こうしたジレンマの顕在化を考えさせるものである。<了>