懐疑と信仰のあいだで─収束の果てと他者への真摯さ
5:発散のなかに踏みとどまること
原理ではなく他者へ
では、どこへ向かうのか。
連載を通じてわたしは「収束への欲望」を批判し続けてきた。しかし批判するだけでは、それ自体が別の原理への収束になる。「収束を批判する者が正しい」という前衛主義の罠に陥る。だからこそ問いはここへ至る。批判ではなく、どこへ向かうのか。
答えは単純ではないが、方向はある。真摯さを原理ではなく他者へ向けること。知をストックではなくフローとして手放すこと。完成を求めず、未完のまま他者とともに発散しつづけること。
ここで言う「原理」とは何か。「これに従えば正しい」「これを掴めば確かだ」と人を安心させてくれる、揺るがぬ足場のことだ。原理は不安への応答であり、依存の対象であり、判断を肩代わりしてくれる装置だ。そして原理に依拠する度合いが極まったとき、それは信仰になる。原理主義という言葉が示すように、原理と信仰は──原理を疑わず、原理に従い、原理によって他者を裁くという身振りにおいて──連続している。教養も、進歩思想も、陰謀論も、キャンセルカルチャーも、それぞれが原理として機能し、ときに信仰として人を動員してきた。第1節で論じた懐疑と信仰の隣接は、まさにこの構造の表れだ。徹底した懐疑は、新たな原理に出会った瞬間に信仰へと反転する。
だからこの連載で提案してきた「真摯さを他者へ向けること」「知をフローとして手放すこと」も、原理として立てた瞬間に同じ罠に陥る。「ストックよりフローが正しい」「収束より発散が正しい」と新しい原理を打ち立てれば、それは結局もうひとつの信仰の装置にしかならない。わたしが指しているのは、原理を求めること自体に抗いつづけるプロセスのことだ。収束への誘惑に気づき、揺れ、踏みとどまる。そのつどの実践であって、安定した立場ではない。真摯さが原理に向かうとき、それは収束する。教養論者も、前衛主義者も、陰謀論者も、キャンセルカルチャーの担い手も、その真摯さは本物だ。しかし原理に向かう真摯さは、他者を原理の文脈に回収する。「正しい知を持つ者が導く」という前衛主義の論理は、どれほど善意に満ちていても、他者を「まだ覚醒していない者」として固定する。原理への依存こそが堕落の始まりだとすれば、その堕落を防ぐのは別の原理ではない。
ホッファーが論じたように、遊びは実用に先行する。弓が楽器から生まれ、農耕が栽培の喜びから生まれたように、収束への欲望を括弧に入れた遊戯的な往来のなかから、次の実用が生まれる。知の遊戯性とは、答えを先取りせず、完成を急がず、他者の異質性を受けとりつづけることだ。それは弱さでも怠惰でもなく、ネガティブ・ケイパビリティという能動的な能力の実践だ。第4回でわたしが論じた「論理階型を往来する能力」──現実と虚構のあいだ、問いと答えのあいだ、自己と他者のあいだを自由に往来すること──それがAIには決してできない、人間の知性の固有の領域だ。
真摯さが他者に向かうとき、それは発散する。他者とはそもそも原理に収まらない存在だ。理解しきれず、予測できず、自分の物語に回収できない。その理解不能性・不安定さを保持したまま向き合いつづけること。これがネガティブ・ケイパビリティの倫理的な次元ではないか。第3回で論じたように、キーツが「不確かさや謎や疑念のなかに留まれる能力」として定義したこの概念は、認識論の問題であると同時に、関係の問題だ。他者の異質性に耐えること、他者を自分の物語に回収しないこと。それはひとつの倫理的な実践として、知の遊戯性の核心にある。
ベイトソンが『精神の生態学』で論じた「サニティ(正気)」とは、収束的な大きな物語への回収を拒み、発散するプロセスに踏みとどまりつづけることだ。学習Ⅲへの跳躍──これまで自明だったパラダイムが恣意的な構築物として浮かび上がる瞬間──は、完成した論理を笑い飛ばす能力でもある。完成した論理こそを誰かのつくりものとして見る、あの瞬間。それは単なる懐疑ではなく、他者の異質性を手放さないことの倫理的な表れだ。
この「完成した論理を笑い飛ばす能力」は、皮肉でも虚無でもない。それは他者への向き合い方の問題だ。他者の論理を正しい/間違いとして裁くのではなく、それもひとつの構築物だとして相対化しながら、それでも向き合いつづける。この姿勢がフローとしての知を維持する。大杉栄が「美は乱調にあり」と宣言したのも、ホッファーが未完の二流を讃えたのも、この方向を指している。完成しないこと、収束しないこと、それ自体が創造の条件だ。
不完全さの生態学へ
第1回でわたしはエリック・ホッファーの言葉を引いた。「完結した表現者よりも、未完の(二流の)作家や芸術家の方が独創性を刺激する可能性が明らかに大きい」と。
この連載全体を通じて見えてきたのは、その逆説が知の領域を超えて、人間の関係そのものに関わる問題だということだ。完成した知は他者を回収する。未完の知は他者に開かれている。完成した論理は発散を止める。未完の問いは発散を続ける。AIが統計的最頻値へと収束するとき、その完成度は高い。しかしそこに他者はいない。
不完全さの生態学とは、その未完の状態に踏みとどまることの倫理だ。答えを急がず、完成を拒み、他者の異質性を手放さない。それは弱さではなく、ネガティブ・ケイパビリティという能力の実践だ。ホッファーが論じたように、実用は遊びの後から来る。収束への欲望を括弧に入れ、発散のなかで他者と向き合うことから、次の知は生まれる。
AIの時代に問われているのは、AIが何をできるかではない。人間が他者の異質性に耐えられるかどうか、だ。摩擦を消し理解不能性を排除した先に、安心はあるかもしれない。しかし創発はない。独創性はない。そして他者もいない。
核が収束の象徴であったように、AIは発散の原理として社会に遍在していく。しかしその発散に対して人間が収束で応じるとき──教養という器に知を固め、陰謀論という器に恐怖を固め、善意という器に他者を固める──地獄への道は踏み固められていく。
不完全なまま、未完のまま、わからないまま──。他者とともに発散しつづけること。それが収束のシステムとしての核の時代を超えて、発散の原理としてのAIとともに生きることの、唯一の倫理ではないか。
第1回でわたしは、AIという「未完のプロット」や「フェイクの質感」が人間の独創性を刺激すると論じた。その洞察は、最終回のいまも変わっていない。AIは完璧に収束する。だからこそ、人間は不完全に発散する必要がある。AIが摩擦を消すほど、人間は意識的に摩擦のなかへ踏み出す必要がある。AIが他者を消去するほど、人間は他者の異質性を引き受ける必要がある。それはAIへの対抗ではなく、AIとともに生きることの倫理だ。
「サイロとウィルス」というこの連載のタイトルが指し示すものは、最終回において再度、その全体像を見せる。サイロとは、知を、人を、価値を、ある領域に閉じ込めて純化しようとする構造のすべてだ。企業のサイロ化、著作権という収束の装置、教養という偏在の器、キャンセルカルチャーという排除の論理。これらはすべてかたちを変えたサイロだ。そしてAIは、そのサイロをすり抜けるウィルスとして社会に遍在していく。コードは国境を越え、組織の壁を越え、職種の区別を越え、知の権威を越えて拡散する。
わたしが連載を通じて問うてきたのは、ウィルスを称揚することではなかった。サイロをさらに固く閉じるか、それとも自分自身がウィルスになるか。その二択の手前に、第三の道があるのではないか、ということだった。サイロでもなく、ウィルスでもない。閉じこもることでも、感染することでもない。不完全なまま、未完のまま、他者とともに発散しつづけること。それが、サイロとウィルスのあいだに踏みとどまる道だ。
教養論という偏在への回収を拒み、陰謀論という隠された収束への逃避を拒み、善意という名の収束の暴力に気づき続けながら、不完全さを抱えたまま、他者と向き合いつづけること。それが核の時代を超えてAIの時代に生きることの、倫理的な核心だとわたしは思う。