懐疑と信仰のあいだで─収束の果てと他者への真摯さ
4:放下態を知らない知識
メタ視点の罠と魔境
ここで立ち止まって考えたいことがある。これまで論じてきた教養論、陰謀論、キャンセルカルチャー、令和人文主義──。これらに共通する身振りは何か。それはメタ視点の高みに優位を感じることだ。
ベイトソンが学習Ⅱとして定義したのは、個別の問題解決を越えて、その背後にあるルールやパラダイムを把握する能力だった。「自分はこの構造を見抜いている」「自分は俯瞰の位置から見ている」。この感覚自体は知的成熟の指標でもある。しかし学習Ⅱが特権化されるとき、メタ視点はそのまま優位の根拠になる。教養論者は「経済合理性に囚われた近視眼的な人々」を俯瞰し、陰謀論者は「メディアに騙された大衆」を俯瞰し、キャンセルカルチャーの担い手は「特権に気づいていない者」を俯瞰し、令和人文主義者は「マウントの教養主義」を俯瞰する。みな自分だけがメタにいるという身振りで優位を確保しようとする。
わたしは思う。現代社会は根本、このメタの重ね合いで重苦しくなってはいないか。SNSの投稿に投稿者の自意識の傾向を発見してメタ視点で突っ込む。しかしそのメタ視点もそのうちにある傾向を示し、そのツッコミにも自意識を発見されてさらにメタを重ねてツッコまれる。会議のための会議を開き、その会議の議題を決めるための会議を開く……。組織にありがちな徒労が、SNSの言論空間で競われている。誰もが他者を俯瞰し、その俯瞰を他者に俯瞰され、無限に入れ子になっていく。
『資本主義リアリズム』を書いたマーク・フィッシャーが「再帰的無能感」と呼んだのは、こういった構造ではないか。資本主義を鋭く批判する書物が話題になり売上を伸ばすこと自体が、すでに資本主義に回収されている。無限の入れ子がもたらす無力感。どんなにメタ視点を確保しても、そのメタ自体が次のメタによって回収される。終わりのない入子細工。「資本主義の終わりより世界の終わりを想像するほうがたやすい」とフィッシャーは書いた。
倍速視聴や考察動画への熱狂もこの症状の一部だろう。物語の沼に浸るのではなく、物語を俯瞰して構造を把握する。その身振りによって、「自分だけは違う」「自分は構造を見抜いている」という感覚を保持しつづけたい。しかしそれもまた、別の誰かによって俯瞰されるメタの階層の一部にすぎない。
この連載の核心となる問いも立ち上がってくる。このわたしの論もメタ視点の優位を誇っていないか。「収束への欲望を批判する者」という立場自体が、別種の前衛主義になっていないか。この問いに自覚的でなければ、わたしの議論も再帰的無能感の入れ子の一段に堕するだろう。
ベイトソンが学習Ⅲと呼んだのは、メタにメタを重ねる運動ではない。むしろその逆、メタの座を捨てることだ。マルティン・ハイデガーのゲラッセンハイト(放下態)、道元の「身心脱落」、禅の大悟が指しているのは、捨象すること、豪華に捨て去ることだ。学習Ⅱのメタのメタに止まるものは、禅でいう小悟であり、大悟ではない。
かつてオウムの麻原彰晃について、ある禅の老師が「あれは小悟であって、“魔境”といわれる状態だ」と語っていた。魔境とは、この場合、ある種の覚醒を経たのちに、それを優位の根拠として保持しつづける状態のことだ。「自分は真理に至った」という確信そのものが、最後の執着として、もっとも危うい依存先として残る。
それを思うと、教養主義者も陰謀論者もヴァンガード主義者もみな魔境に住んでいるようにみえる。その論者たちは麻原彰晃と構造的な親族だ。みな小悟をもって大悟と錯覚し、メタ視点の優位を譲らない。
麻原を特殊な狂人としてだけ扱っては、この問題の射程を見失う。多くの知識人が、麻原彰晃的な万能感に酩酊している。教養論者も陰謀論者もキャンセルカルチャーの担い手も、メタ視点を確保して「構造を見抜いている」と自負する者すべてが、規模の違いこそあれ同じ感覚のなかにいる。「自分は気づいている」「自分は構造を見ている」「自分は俯瞰の位置にある」。その確信のスケールがどこまで膨らむかは、本人の能力と環境次第だ。麻原はそれを宗教団体という形で最大化した。しかし、同構造はあらゆる場所にある。
迷い多き若者を引きつけるのも、この麻原彰晃的な俯瞰的な万能感がもつ権威だ。大正教養主義のエリートが旧制高校生を、新左翼の理論家が学生を、麻原が高学歴の若者を、そして現代の教養系インフルエンサーが視聴者を惹きつける、その構造はみな同じだ。「世界はこうなっている」「あなたの違和感の正体はこれだ」と俯瞰の構造を提示してくれる人物に、人は救済を見る。そうした人たちもやがて自分が高みに上がったと錯覚する。実際には教祖の高みの裾野に集まっているだけなのに、自分も構造を見抜いた者になったと感じる。これは魔境の伝染だ。
学習Ⅲへの跳躍とは、その魔境からの脱出だ。捨てること。手放すこと。メタの座から降りること。そしてその降下は、原理への信仰を捨てるだけでなく、原理を批判するという立場すらも手放すことを意味する。批判する者の優位を保持したまま批判するのではなく、優位そのものを放下する。
繰り返すが、わたし自身、メタにメタを重ねる罠から自由になれていない。
少し前、こんなことをSNSに書いた。
「生成AIにこんなプロンプトしてこんなこと言われた、と投稿する中高年以上の男性のアカウントをよく見る今日この頃、それって新しいタイプの独り言ですよ、と思っている。なまじお墨付きのようにAIくんが知識をくっつけてくれるから、そうとも気づかないんでしょう。さしずめ、こんなプロンプトはオレにしかできんって思ってらっしゃるでしょうね」
「新しいタイプの独り言」と書きながら、わたしはこの現象の構造を考えていた。古典的な独り言は閉じている。誰にも聞かれず、誰の応答も期待しない、自己完結した発話だ。しかしAI時代の独り言は違う。AIを他者とみなして語りかけ、その「会話」を発表する。これが新しいタイプの独り言だ。発話者は確かに独りだ。相手は人間ではない。AIは他者ではない。それでも応答があり、しかもその応答は発話者の問いかけの方向に統計的最頻値として戻ってくる。だから独り言なのに「対話した」という感触が残る。本来は独り言なのに、独り言として閉じることがない。
人はその対話らしきものをSNSに投稿する。「AIにこう聞いたら、こう返してきた」と。投稿することで独り言は社会化される。読者は二重の構造を見せられている。AIに語りかける主体と、その語りかけを公開する主体。後者は前者を素材として扱っている。「自分はAIをこう使いこなしている」「自分の問いはこういう深さを持っている」というメタの誇示が、そこには含まれている。
これは外向きの独り言だ。大きな声の独り言だ。
応答してくれる相手(AI)が独りの孤独を埋め、その様子を公開することで他者からの承認も得る。閉じた発話の安心と、開かれた発話の承認が、矛盾せずに両立してしまう。これがAI時代の新しいタイプの独り言の正体だ。
すこし論が逸れた。戻ろう。
より重要な問題はその先にある。この投稿文を書きながらわたしは、自分が何をしているか半分わかっていた。これも他者の投稿傾向をメタ視点で発見し、それを俯瞰してツッコむ運動だ。AIに讃えられて投稿するおじさんと、そのおじさんをメタから笑うわたしと、構造はまったく同じだ。誰かを俯瞰する身振りで自分の位置を確保している。わたしの「ツッコミ」もまた、SNSに公開された別種の新しい独り言にすぎない。読者の応答を期待するかたちをとりながら、実際にはわたしの位置を確認するための発話なのだ。
オウム真理教が日本社会を震撼させた頃、社会学者の宮台真司が興味深い告白をしていた。「自分の能力を使えば、教団をつくって教祖になるのは難しくない」と。これはメタ視点を持つ能力そのものが教祖性と地続きであるという、おそろしく率直な自己分析だった。世界を俯瞰し、構造を見抜き、人々の盲点を指摘できる者は、その能力をそのまま教祖の道具として使える。違うのは、使うかどうか、どこまで使うかという程度の差だけだ。
そして皮肉なことに、こうした高みから下々を睥睨する能力を持つ者ほど「世の中をよくしよう」という方向に論じがちだ。能力の高さと善意の方向性が一致しているように見えるとき、その者はもっとも警戒すべき位置にいる。自分の能力を悪用しているという自覚なしに、メタ視点の優位を「若者のため」「未来のため」という言語で正当化する。そこにはもはや麻原彰晃と距離はほとんどない。
わたし自身もその罠から自由ではないことは何度でも書いておきたい。「収束の暴力を批判する」「他者の異質性を守る」。わたしの論はそういう善意の言語で構成されている。しかしその善意の言語こそが、わたしのメタ視点の優位を保持し続けるための装置になっていないか。世の中をよくしようと論じているふりをして、実は自分のメタの座を確認しているだけではないか。この問いに、わたしは最終的な答えを持っていない。
そしていま、この第5回を書いている。「収束への欲望を批判する者」という立場を保持したまま、その批判のメタ性に自覚的になる、という身振り自体が、すでにもう一段のメタを重ねる運動だ。本当に魔境から脱しているなら、おそらくこんな文章は書かない。書く必要がない。豪快に捨て去るとはそういうことのはずだ。
それを承知のうえで書いている。捨象する術を知らないから、こうしてメタの座を確保しながら言葉を積み上げる。この文章は学習Ⅲではない。学習Ⅱのなかで、学習Ⅲの方向を指差すだけの身振りに過ぎない。指差すことと、そこへ歩むことは違う。