懐疑と信仰のあいだで─収束の果てと他者への真摯さ
2:善意の収束、地獄への道
他者を回収する運動
「地獄への道は善意で舗装される」という言葉がある。本来は、善意で始めた行為が思いがけない悪い結果に至るという処世の警句だ。その裏にはもっと不穏な含意がある。善意は人を酩酊させて、懐疑を奪うからだ。悪意であれば人は自己懐疑を失わない。しかし善意は自己懐疑のブレーキを外す。自分は良いことをしているという確信が、行為への省察を停止させる。そしてその酩酊のなかで、善意は他者を自分の枠に収束させる暴力へと滑っていく。悪意の暴力は見える、だから抵抗できる。しかし善意の収束は見えない、むしろ「ありがたい」と受け取られる。その不可視性こそが、地獄への舗装を完成させる。
善意による他者の回収とでも呼ぶべき運動がある。他者を理解しようとする真摯さが、いつのまにか自らの経験・文脈・物語という、収束の器に相手を押し込め管理できるものとして安心しようとする運動に転化する。理解とは本来、他者の異質性に揺さぶられることのはずだが、ここでは逆に、他者が自己の物語を確認する素材になってしまう。
これは、わたしたちが「老害」と呼ぶ現象の、案外見落とされている側面だ。老害といわれる人たちに悪意はない。むしろ真摯だ。しかし経験というストックが分厚くなるほど、フローとしての他者を受け取る回路が閉じていく。権威があるほど誰もそれを指摘しないから、その閉域は自覚されないまま強化されつづける。知識人の老害化がほぼこのパターンをたどるのは、知を所有しようとする欲望の必然的な帰結ではないか。
ブルデューが論じた「ハビトゥス」という概念がここで重要になる。ハビトゥスとは、階級や環境が身体に染み込んだ結果として、自然な感性や感じのいい振る舞いとして現れるものだ。教養ある知識人が他者を回収するとき、それは意図的な支配ではなく、ハビトゥスとして身体化された、自然な理解の仕方として現れる。だからこそ本人は気づかない。指摘もされない。善意の収束は、ハビトゥスとして無意識化されている分、より深く、より広く作動する。
これは老人と若者のあいだだけに起きることではない。親が子どもを、自分の続きとして回収しようとする。恋人が相手を自分の理想の具現として固定しようとする。友人が自分と同じ感覚を持つ者として確認しようとする。
理解できない事象に遭遇した瞬間に不安が走り、その不安を解消するために相手を自分の枠に押し込める。この運動はあらゆる親密な関係に潜んでいる。ネガティブ・ケイパビリティは、哲学や美学の話だけでなく、他者の理解不能性、不安定さ、異質性に耐えられるかどうかという関係の根本に触れている。善意の収束が愛情の言語で語られるとき、より厄介だ。「あなたのことが心配だから」「あなたのためを思って」。反論しにくいかたちで収束の暴力は行使される。
ベイトソンが家族療法の文脈でダブルバインドを論じたのも、この問題の射程を示している。「愛している」と言いながら抱擁を拒む母親。言語的メッセージと非言語的メッセージが矛盾し、どちらに従っても罰せられる。善意の収束が関係のなかで構造化されるとき、それはダブルバインドとして相手を閉じ込める。教養論者が「あなたのために知を届ける」と言いながら「正しい知の様式を押し付ける」とき、AIが「あなたを理解している」と応答しながら「期待の最頻値を返す」だけのとき、どちらもダブルバインドとして相手の発散を封じる。
教養論者が、読者を「まだ覚醒していない自分の過去」として回収し、前衛主義者が大衆を「導かれるべき者」として固定し、陰謀論者が信者を「真実に目覚めた同志」として囲い込む……これらはすべて同型の運動だ。「理解する」「共感する」「導く」という善意の言語が、他者を自分の物語に収束させる暴力として機能している。