懐疑と信仰のあいだで─収束の果てと他者への真摯さ
1:背中合わせの教養論と陰謀論

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

同型の認識論的構造

第1回から、さまざまに対立軸を仮設して、それを足場に手の届きにくい議論に手を延ばしてきた。

収束と拡散、偏在と遍在、実用と遊戯──。

こういった2つのもののあいだを揺れながら考えてきたのは、知性やそれを覆う権威の荒んだ肌に指をなぞらせることだった。その感触を言葉にすることだった。

最初に扱ったのは核とAIだった。核は収束のシステムであり、力を一点に偏在させ管理によって秩序を保つ。対して、AIは発散の原理であり、知を遍在させ流動させつづけることでそれを増幅する。実用に先立つ遊戯がそうであるように、収束させようとせず手放すことから創造は生まれる。エリック・ホッファーが論じたことを、この連載全体で通奏低音としてきた。

次には、企業のDXと著作権を、その次には人間の知性そのものを、そして前回は大正教養主義から令和人文主義へと連なる前衛主義の系譜を、主に収束と拡散、偏在と遍在という視座から眺めてきた。そこに浮かび上がっていたのは、ひとつの構造の反復だった。“知”を固定し所有しようとする欲望は、時代に沿って外装を変えながら、よく似た収束の暴力をもたらしてきたのだ。

最後となる今回は、前回の論点を深めるところから始めたい。

一見対極に位置する教養論と陰謀論──一方は「公認された知の体系」への参与を促し、他方は「隠された真実の暴露」を謳う──が、実は同型の収束欲望の二つの顔であること。その循環するかのような揺らぎから抜け出す方向を、いくつかの仮の手がかりとして提示してみたい。

教養論と陰謀論の、その認識論的な構造は同型だ。どちらも「正しい知を所有する者がベタな現実を超越して上位に立つ」という前提を共有し、知をフロー(拡散)として手放すのではなくストック(収束)として固定し独占しようとする。公認された真実の体系を所有しようとするのが教養論であり、隠された真実の体系を所有しようとするのが陰謀論だ。求めているのは同じものだ。世界の真の姿を一望できる説明体系、すなわち俯瞰の“特権”だ。俯瞰はすぐに睥睨に変わる。教養論は表の正統な知を通じて体系を求め、陰謀論は裏の隠された知を通じて体系を求める。内容は正反対でも、知の所有による権力への欲望の構造は同一だ。

参照したいのは、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「象徴的暴力」という概念である。ブルデュー自身が論じたのは教養論の側、つまり経済資本や社会的地位を持つ者が、文化的趣味や教養を身体化された、ごく当たり前の感性とすることによって、自分の優位を「金持ちだから」ではなく「成熟しているから」と見せかける構造だった。露骨な階級の問題が、人格の問題としてすり替えられる。それが象徴的暴力の核心だ。

これは現代においてもなんら変わらない。SNS投稿のそこかしこに「感じのいい選民化」とでも呼ぶべき身振りをみつけることができる。露骨な権威主義より批判しにくく、善意の顔をして浸透する分、より厄介だ。「金持ちが偉い」より「教養ある人が正しい」のほうが、ずっと暴力的だ。前者は反発されるが、後者は道徳の顔をして浸透する。

こういう安直な論理は酩酊を誘う。たとえばこんなふうだ。「彼が皆より優秀で成功しているのは教養があるからだ」と──。教養が成功者の人格的な深さを保証し、成功者であることが教養の真正さを裏書きする。両者は循環的に、マッチポンプ的に正当化し合う。そこで隠蔽されるのは、その人が恵まれた家庭に生まれ、学力・学歴にも恵まれ、選ばれた条件によって成功してきたという構造だ。

人は自分の労苦を過剰に評価するものだから、こういう人たちは自分の努力をこそ知るが、その出自の偶然性を認めるに疎い。成功した人が教養を語るのではなく、成功できる条件を持って生まれた人が、それを教養の獲得という個人の努力にすり替えて語るというのが、実態だ。

この象徴的暴力の論理は、陰謀論の側にも反転したかたちで見出せる。陰謀論者もまた「自分は隠された真実を見抜く感性を持つ者」という優位を、自然なものとして身体化する。往々にしてこういう人たちは、恵まれなかった経験ゆえに社会の現実や人生の苦渋に通じていると自認している。だからその陰の部分を根拠に自身の論へ説得力を付与する。これは、いわゆる「被害者ムーブ」とも通じる態度だ。傷ついた過去や疎外された経験こそが、自分の認識の正しさを保証するという論理。痛みが真理の証になる。しかしそこには、教養論者が意識する「成功と教養の循環」と鏡像の構図がある。教養論者が成功と教養の真正さとを循環させるように、陰謀論者は被害と真理を見る目とを循環させる。出自は正反対なのに、自分の認識を特権化する論理は同型だ。

陰謀論者が他者へ向ける「あなたはまだ気づいていない」「目を覚ませ」という呼びかけは、教養論の啓蒙の身振りと驚くほど似ている。両者は同じ象徴的暴力の論理を、表の知と裏の知という異なる素材で再生産しているからだ。

AIが知を遍在させるほど、この象徴的暴力が、知を所有しなければならないという不安を煽り、教養論と陰謀論への殺到を促す。AIが知を遍在させるとき、人間はなぜ逆に収束へと向かうのか。アメリカの経済学者ポール・M・ローマーが内生的成長論で示したように、知の本質はフローとして他者との相互作用のなかで生まれる非競合的なものだ。しかし不確実性が高まるほど、人間はその非競合的な豊かさを手放し、競合的な所有の論理へと退行する。誰かのものではない知への信頼が失われるとき、自分だけが持つ知への渇望が生まれる。教養論はその渇望に応え、陰謀論もその渇望に応える。方向は逆でも、欲望の構造は同一だ。

 

懐疑と信仰は隣接している

しかしなぜ、知を所有しようとする欲望はこれほど根強いのか。それは、知を所有することが不安への応答だからだ。世界が不確かで、何が真実か分からないとき、人は何かに依拠したくなる。確かなものを掴みたくなる。不確かな時代で人は懐疑に囚われる。既存の説明では不足を感じ、もっと深い真実を探す。

ところがこの懐疑は、ある閾値を超えると反転する。徹底的に疑った先で、人は揺るがぬ答えを掴んでしまう。懐疑は信仰へと通じているのだ。

徹底した懐疑は、ある閾値を超えると信仰へと反転する。これは抽象的な命題ではなく、日本の近現代史が繰り返し実証してきた事実だ。第4回で論じたように、大正教養主義は西洋近代への懐疑を深めるほど、保田與重郎的な「日本精神」という信仰へと転化した。懐疑の対象が「外来の毒としての近代合理主義」に収束した瞬間、それはもはや懐疑ではなく信仰だった。正しいものを否定し尽くした先に、“真に”正しいものへの渇望が生まれる。この反転の構造が前衛主義(ヴァンガード主義)の本質だ。

学生運動もまた、似た経路をたどった。資本主義への根底的な懐疑が、内ゲバと敗北を経て、エコロジーを介し、やがてオカルトと神秘主義への信仰へと転位した。近代科学では説明できないという否定が、隠された宇宙的真実があるという肯定へと滑落する。懐疑の構造がそのまま信仰の構造に転写される。近代合理主義への懐疑が、隠された真実への信仰へと滑落する経路は、思想の逸脱ではなく、構造的必然だった。

ここに、フランスの社会学者ロジェ・カイヨワのいう「ミミクリ(模倣の遊び)の堕落」が合流する。カイヨワは『遊びと人間』のなかで、遊びは「これは遊びだ」という暗黙の合意のうちに現実から切り離されているとき初めて成立すると論じた。ミミクリが堕落するのは、その暗黙の合意が失われ、模倣が現実そのものに侵食したときだ。役を演じているはずが、役こそが本当の自分だと信じ込む瞬間。ミルグラム実験やスタンフォード監獄実験のような例は枚挙にいとまがないほどだ。喩えついでにいえば、わたしが指弾する教養主義者とはこれら実験の「看守」側であり、陰謀論者は同じく「囚人」側である。

懐疑と信仰の反転に話を戻す。「もしかしたら別の真実があるかもしれない」という懐疑は、それが仮説──実験──のうちにあるあいだは遊戯の余地がある。しかしある閾値を超え、「これこそが真実だ」と確信に転じた瞬間、遊戯は終わる。実験が現実になったように、仮説は信仰に変わる。ミミクリの堕落が示しているのは、まさにこの種の越境だ。

懐疑が、ある閾値を超えて信仰という収束への跳躍に変わる、この跳躍が政治と結びついたとき、何が起きるか。哲学者ユク・ホイが「形而上学的ファシズム」と呼んだのは、こういう構造だ。西洋近代の普遍的理性は誤りだと懐疑が始まる。そこまでは正しい問いに見える。しかしその懐疑が、対抗として別の絶対的源泉──民族・伝統・東洋精神──を立ち上げ、それを、我々の本来の真理として絶対化したとき、皮肉なことに批判していたはずの西洋近代の独断と同型の構造が反復されてしまう。普遍主義に抗うはずが、別の普遍主義を立てている。そしてその絶対化された“我々”に従わない者は、内なる敵として排除される。京都学派の「近代の超克」がその典型として挙げられる。近代という大きな物語への懐疑が、それを失った空白に耐えきれず、別の大きな物語の捏造へと反転する。そしてユク・ホイが指摘したのは、この捏造が単なる知的迷走ではなく、政治的動員と結びついて暴力を生み出すという構造的な事実だった。

この構造は、生成AI時代の現在にも反復されている。AIが既存の知の権威を揺るがすほど、わたしたちは依拠すべき「大きな物語」を失っていく。その喪失は耐え難い。だから別の大きな物語が捏造される、「人類の進化」「ポスト・ヒューマンの時代」「真の人間性の回復」。原理に依存することが堕落の始まりだとすれば、その堕落は悪意からではなく、真摯な懐疑の徹底から始まる。懐疑を突き詰めた果てに、次の大きな物語が欲しくなる。この欲望こそが、教養論と陰謀論を同じ場所へと引き寄せる。両者はどちらも、失われた大きな物語の空白を埋めようとする運動なのだ。

第2回に続く