見るAI、診て看る医師
順天堂大学医学部教授 矢野 裕一朗氏に聞く
第2回 医療DXでできること/できないこと

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聞き手 都築 正明
IT批評編集部

ウェアラブルデバイスやAIの発展によって、人間の身体や行動をデジタル空間に再現する「デジタルツイン」の構想が現実味を帯びている。しかし、人の人生は数式だけでは表せない。順天堂大学の矢野氏は、統計学的な最適解を導くAIの可能性を認めつつも、人間の非合理性や人生の文脈を踏まえた医療が重要であることを指摘する。

取材:2026年3月11日 都内にて

 

矢野 裕一朗(やの ゆういちろう)

順天堂大学医学部総合診療科学講座教授 。同大学のAIインキュベーションファームでセンター長、東京科学大学M&Dデータプラットフォーム推進室の特任教授。2002年に自治医科大学を卒業し、米国各地の大学(シカゴ大学、ノースウェスタン大学、デューク大学など)で研究・教育に従事した経歴を持つ 。現在はデューク大学の客員教授 、スタンフォード大学のGlobal Facultyなども兼任。専門分野は予防医学、データサイエンス、医療DX、AIなど。これまでにJAMA、NEJM、Lancetといった学術誌を含め、250報以上の論文を発表。その業績に対し、日本高血圧学会学術賞、米国心臓協会(AHA)の学術賞、John Laragh Research Awardなど、数多くの賞を受賞されている。また、日本医学会連合の医療DX推進委員会委員や日本内科学会のAI委員会委員を担当し、国内の医療デジタル化を牽引。メディアを通じた活動では、NHK「あしたが変わるトリセツショー」への出演 のほか、New York TimesやForbes JAPANなどの国内外の有力メディアでもその活動が紹介されている。AIや診療データを活用した次世代医療の実装研究に取り組むほか、医療人材の教育にも注力している。

 

目次

バイタルデータをトークン化する

統計学的な解と人間的な解

 

バイタルデータをトークン化する

都築 正明(以下、――) バイタルデータをトークン化して処理することについて教えてください。

矢野 裕一朗氏(以下、矢野)仮に、人が生まれてからあらゆるセンサーを通じてすべての情報を収集し、それをAIの計算に用いることができるなら、理論上は「デジタルツイン」の実現は可能です。ある行動をとった結果がどうなるかを予測するシミュレーションもできるようになります。しかし、デジタルツインで成功している物流や人流などとは異なり、私たちの人生は数式で書けないことが多くあります。理論上は遺伝子情報がどのように作用するのかを積算することができますが、パラメーターが多い複雑系になっています。また私たちの身体には線形な関係と非線形な関係とがあって、塩分をたくさん摂ると血圧が上がる人もいれば、ある時点までは上がらず、閾値を超えると突然上がる人もいます。何より、“偶然”の影響は無視できません。歴史や個人の人生が、どれほど偶然に左右されてきたか。ウェアラブルデバイスなどを用いて日常のデータを算入することで、より精緻にリスクを見積もることはできますが、完璧なデジタルツインができるかというと、それは難しいところです。腎臓や心臓など単体の臓器についてはデジタルツインでなんとかできるのですが、複数の臓器にまたがったりクロスしたりすると途端に複雑になります。

――臓器のレベルではオルガノイドがつくれますし、iPS細胞を用いた心筋シートが認可もされました。

矢野 ビッグテックは、個体全体のデジタルツイン構築に向けて極めて野心的なアプローチをとっています。彼らの考えは、すべての情報さえ揃えばAIで学習・再現できる、です。足りないデータについては、自動運転の進歩を支えた合成データの手法を使えばいいと考えます。しかし、人体においてこれを実現するには、出生時(あるいは胎児期)からの継続的なデータ蓄積が不可欠であり、成人後に過去の欠損データを後付けで補正・モディファイすることは困難です。 米国ではすでに、完全なデジタルツイン再現に向けた先行研究が行われています。胎児期からのモニタリングに加え、出生直後からの視覚・触覚のセンシング、衣服の着用といった行動学習、さらには気象などの環境因子のデータ化まで網羅しています。こうした包括的なライフログを統合できれば、理論上、リアルな個体デジタルツインの構築は可能です。しかし、そこで終わりではありません。人間の生き方や行動の選択は、その時々の文化や文明の進歩に強く影響されます。時代は常に移り変わっていくため、ある時点で完璧なデジタルツインを作り上げたとしても、社会環境がシフトした瞬間、そのモデルは時代遅れになってしまう可能性があります。絶えず変化する時代と人間の関係性を追いかけ続けることは、結果として終わりのない、いたちごっこ、になるのではないか、という本質的な課題も残されているのです。

――しかし、恒常的にセンサリングを行うと、成育そのものに影響がおよびそうです。

矢野 おっしゃる通りの倫理的課題はあります。ただ、そうして得られた膨大なデータを高次元空間でマッピングすれば、病気の因果関係を予測する究極の予防医療が理論上は実現可能です。しかし、その先に訪れる世界を想像してみてください。たとえば大谷翔平選手の生誕からの全データを蓄積し、「その通りに育て、その通りに行動すれば大谷翔平になれる」というアルゴリズムができたとします。すると待っているのは、誰もが同じ正解を目指す、完全に均一化された世界です。ですが、私たちの人間らしさの本質とは、他者との違い(独自性)や、効率性だけでは測れない非合理性にこそあるのではないでしょうか。それに、親が子どもに望む理想像だって時代とともに移り変わります。こうした人間の多様性や非合理性、そして時代の変化がある限り、人間を完全にデジタルで再現し、コントロールするような世界が実現することは、しばらくは難しいだろうと私は考えています。

――MITメディアラボのデブ・ロイ教授が行った“Human Speechome Project”のように、自分の家中にカメラを置いて、子どもが言葉を獲得するプロセスを記録・分析するという実験もありますね。

矢野 宅内センシングにおいて、転倒検知などの見守り用途は有益ですが、収集されたライフログが将来的にどう転用され、誰に商業利用されるか不透明であるというリスクがあります。これは、高度な予測を可能にするデジタルツインや高次元マッピングが孕む共通の課題です。そして、このデータによる事前予測と最適化の思想は、生命の領域、すなわちゲノム解析や出生前診断の普及へと直結しています。潜在的な疾患リスクを事前に把握する技術が進む一方で、それをどこまで社会が許容すべきかという倫理的境界線の議論は未だ追いついていません。

――遺伝子改変ツール「CRISPR-Cas9」などで遺伝子に介入すると、予期しない影響もありそうです。

矢野 技術の精度自体は次世代ゲノム編集の登場で劇的に向上していますが、デザイナーベイビー(受精卵の改変)に関しては、世界的に強力な倫理的・法的ブレーキがかかっています。特に日本国内においては、2026年6月に「ゲノム編集を施した受精卵での出産」を明確に禁止し、違反者には刑事罰を科す法案が可決されました。一方で、すでに生まれて病気に苦しむ患者さんを救う体細胞への遺伝子治療は、凄まじいスピードで実用化が進んでいる印象をうけます。

 

統計学的な解と人間的な解

――AIが出力する統計学的最適解を活用することにも意義はありますよね。

矢野 単なる効率化の道具に留まらず、医療の質と共感を底上げする強力な基盤になりつつあります。医師も人間ですから、多忙による疲弊や感情の波があり、コミュニケーションの質(EQ)にはどうしても個体差が生じます。一方、AIは24時間365日、常に一定の高いパフォーマンスを維持できます。実際に、患者からの質問に対する「医師の回答」と「医療AIの回答」を比較した研究では、AIの回答の方が情報量が豊富で、共感の度合いが高いと評価されるという結果が報告されています。

 

 

――診療時間の問題もありますね。病院には回診の時間もありますし、大学病院には加えて教育や研究の時間もあるわけですから。

矢野 おっしゃる通りです。特に外来では「5分診療」と言われる短時間の中で、医師は患者さんと話しながら、カルテ記載や処方箋の発行といった膨大な事務作業に追われています。だからこそ、現代の医療AIがその定型業務を代替することには価値があります。図(図6参照)にあるように、AIが事務作業を巻き取ることで、医師は患者の目を見て話す時間を取り戻し、コミュニケーションの質を劇的に底上げできるのです。また、5分間しか接しない医師よりも、スマホやウェアラブルデバイスを通じて24時間繋がっているAIのほうが、その人のリアルな生活習慣や健康状態をはるかに熟知していることは容易に想像できます。日常の睡眠、運動量、心拍数の変動といった患者背景(コンテキスト)の解像度を上げ、医療に紐付けるアプローチにおいて、AIの右に出るものはいません。

――膨大なデータと計算量から紡ぎ出されるナラティブは、それほど外れてないだろうと考えられますね。LLMは簡単にストーリーをつくってくれますし。

矢野 情報の網羅や要約において、人間はAIに敵いません。だからこそ我々医療人は、AIが提示する高度な近似解をベースに、目の前の患者さんと共に唯一無二の最適解を創り上げていく必要があります。AIの回答がそのまま最適解にならないのは、臨床の現場にはデータ化できない人間の非合理性や、感情の揺らぎがあるからです。たとえば1週間仕事が忙しくて風邪を引いた患者さんがいたとします。AIに自分の症状を入力すれば、『こういう風にした方がいい』という非常に的確な処置の答えが返ってくるでしょう。しかし、その人が本当に求めているのは、薬の処方だけではありません。『この1週間、どれだけ自分が忙しくて大変だったか』という背景への同情や共感、つまりコンパッション(思いやり)を得ることで、救われたと感じる方は少なくないのです。そのような人に対して、AIが導き出すデータ上の最適解だけでは、心が満たされないのは明白です。

第3回につづく