用立てされる“教養”——知の収束と前衛主義の系譜
4:令和の収束、無害化とキャンセルの双子
目次
キャンセルカルチャーという現代の前衛主義
歴史家の與那覇潤は、2025年の令和人文主義炎上を「日本でも反転した“キャンセル”の潮流」として読み解いた。
「不自由が横行した疫病と戦争の時代に、キャンセルに手を染めるか “うまく立ち回った”者ほど、いまや自由の敵として新たに裁かれる。米国で生じた思潮の大反転が、日本にも届き時代を画する指標になるのなら、令和人文主義も本望だろう。」
この炎上はアメリカで先行して起きた思潮の大反転が日本にも届いた証左だ。BLM(ブラック・ライブズ・マター)運動を契機に台頭したキャンセルカルチャーは、当初リベラル側が「不正義な文化を清算する」手法として機能した。しかし2020年7月、トランプが建国の父祖たちの銅像撤去を「キャンセルカルチャーだ」と非難したことで、この語の政治的な所有権が反転する。かつてキャンセルを行使した側が今度はキャンセルされる側に立たされていく。振り子が勢いよく揺れ返す、その「反転」が単なる振り子の揺れであるなら、それは次の収束への回帰を準備しているにすぎない。問われているのは、この振り子の運動そのものから降りることができるか、だ。
保田與重郎の日本浪曼派が、西洋近代をキャンセルし、学生運動の前衛主義がプティブルジョアをキャンセルしたように、現代のキャンセルカルチャーは、誰もが傷つかない正しい意識を持つ──不倫しない、ハラスメントしない、法令遵守を徹底し、善良な隣人である──者以外をキャンセルしようとする。時代と内容は変わっても、真実を知る者が汚染された者を排除するという前衛主義の論理は同型だ。
與那覇潤が指摘したように、キャンセルカルチャーは本質的に、反人文的な営為だ。人文知の本質は明確なキャンセルとは相容れない。善と悪を二分し、不純な者を排除するという身振りは、人文の否定にほかならない。現代のリベラリズムが混乱と崩壊に向かいつつある大きな要因のひとつは、その担い手たちが──大正教養主義者が日本浪漫派的キャンセルへと転化したように、学生運動家がオカルトへと転位したように──前衛主義の論理に絡めとられてきたからではないか。「意識のアップデート」などという言いまわしは、「日本精神の陶冶」や「革命的前衛」という言語と、認識論的な構造において同型だ。
戦後リベラリズムの崩壊と混乱は、未だここに根を下ろしている。真実を知る前衛が覚醒していない大衆を啓蒙するというヴァンガーディズムの論理を内包したまま、知を独占、支配しようとしたことこそ、戦後リベラリズムの構造的な弱点なのだ。キャンセルカルチャーは枝についた花であり、かつその論理の純化形態でもある。表面上は「権力からの解放」を謳いながら、「正しい意識を所有する前衛」が「間違った意識の大衆」をキャンセルするという構造において、保田與重郎的なファシズムの鏡像となってはいないか。
令和人文主義とキャンセルカルチャーの表裏
「令和人文主義」が大炎上したのは、2025年末のことだった。引き金は東浩紀による告発だ。
「すでに和解済みで告発が取り下げられているにもかかわらず、疑惑の人物と知り合いだというだけで対談を拒否できるようになってはもはやなんでも可能で、悪い評判さえ起こせば勝ちという状況になってしまう」(東浩紀のXのポストより)
親密性に満ち、権威的でないと自称する界隈が、その裏面ではキャンセルの論理で動いていたという疑いが浮上したのだ。
令和人文主義は「政治・倫理・差別というテーマを回避し楽しく知を届ける」と自己規定していた。コロナやらウクライナやら嵐をやり過ごしてからの後出しで「人文知って良いですよね」とゆるく出てくる一方、裏で不都合な相手を排除する。これまでほんのり漂っていた令和人文主義の自己欺瞞が、ガス管の外れた台所のようにガスを充満させ、小さな摩擦で大爆発した、と與那覇潤はいう。
この現実との距離のとり方(回避)自体が、キャンセルカルチャー的圧力への応接として生まれた。2010年代後半、政治・ジェンダー・差別について発言すれば即座に炎上、排除されるリスクが高まるなか、摩擦のある話題には触れない、楽しくわかりやすく、中立にやるという身振りが知識人の生存戦略として台頭したわけだ。令和人文主義の無害さとは、キャンセルカルチャーという暴力からの避難場所だ。「楽しい知」は、その暴力を否定したり立ち向かって嘲笑うのではなく、ただその拳が届かない場所を探す。
わたしのいう知の遊戯性と、令和人文主義の「楽しさ」は根本的に異なることを明確にしておきたい。ホイジンガやカイヨワが論じた遊びとは、現実の枠組みを括弧に入れ、不確実性のなかで自由に往来する能力のことだ。答えを求めず、完成を拒み、リスクを引き受けながら問いを開きつづける。それが知の遊戯性だ。しかし令和人文主義の「楽しさ」は、摩擦を回避し、傷つかない場所を確保するための身振りであり、遊びの外装をまとった安全の確保にすぎない。知をオモチャにしたいのだ。そして「楽しく」という振る舞いの様式が規範化された瞬間に、それは「正しく」となんら違うところがなくなる。「楽しくない者」を排除する論理は、「正しくない者」を排除する論理と構造的に同型だ。外装が「楽しさ」に変わっただけで、収束の暴力は温存されている。
作家の小峰ひずみが「正社員様の哲学」と批判したのも、この構造を別の角度から照らしている。令和人文主義の担い手も受け手も、四年制大学を出て正規雇用で働く層に偏っている。コテンラジオを聴き、哲学書を楽しむ時間的にも経済的にも余裕のある人たちだ。シフト制で働く非正規労働者、地方の工場のライン作業員、介護や保育の現場で感情労働している人たち、人文知が本来もっとも必要なはずの層には届いていない。「知を民主化する」「楽しく届ける」と謳いながら、実際にアクセスできているのは最初からアクセスできた層だけだ。格差の構造をそのまま温存したまま「開かれた知」のポーズをとっている。
「楽しく中立な知」という外面の無害さは、そこに参加できる者とできない者という境界線を内部に引く。令和人文主義は誰かを前提し、誰かを排除している。それは保田與重郎が「日本的なるもの」という美学的言語で西洋近代を排除したのと、認識論的に同型の収束の欲望だ。外装が「楽しさ」に変わっただけで、知を特定の様式に収束させる閉域の形成という構造は変わらない。
令和人文主義とキャンセルカルチャーは、収束への欲望と収束への恐怖という双子として、同じ不安から生まれている。AIが知を遍在化/不確実化するほど、この双子の圧力は同時に強まる。“遍在”する知への恐怖が、“偏在”する「正しい知」への回帰を促す。大正教養主義が浪漫主義の排外を経て昭和ファシズムへと転化したように、学生運動の敗北がエコロジーを介してオカルトとオウムへと流れ込んだように、現代のキャンセルカルチャーが令和人文主義的な無害な逃避を産み落としたように、三つの系譜は異なる時代に異なる外装をまといながら、同型の収束の欲望という通奏低音を鳴らし続けている。
この系譜全体を通じて見えるのは、ひとつの反復する構造だ。知の遍在や不確実性が増すたびに、人間はその不安への応答として知を収束させようとする。教養として外部から注入するか、キャンセルとして境界を引くか、陰謀論として隠された真実を所持するか。
しかしローマーの内生的成長理論が示すように、知の真の力は外から注入することでも境界を引くことでもなく、内部の相互作用のなかで発散的に生まれる。ハイデガーの言葉で言えば、知を用立てることへの抵抗こそが、知の本来の開示を可能にする。キーツが名付けたネガティブ・ケイパビリティは、その抵抗を持続させる認識論的な能力だ。
ベイトソンの言葉を借りれば、大正教養主義も学生運動も令和人文主義も、学習Ⅱのパラダイム、「世界はこうなっている」という固定されたメタ視点の枠組みの内側にとどまり続けた。学習Ⅲとは、そのパラダイム自体が恣意的な構築物にすぎないと悟る瞬間だ。知を外から注入できると信じる教養論も、排除によって正義を純化できるとするキャンセルカルチャーも、楽しく知を届けることが正しい様式だと信じる令和人文主義も、どれも「自分は知の正しいあり方を知っている」という学習Ⅱのメタ認知を特権として手放せない。AIが強制的に引き起こすエポケー的な空白──これまで自明だった前提がただのつくりものとして宙吊りになる瞬間──は、この学習Ⅲへの跳躍を、社会規模で、しかも強制的に迫っている。その跳躍に耐えられるかどうかが、AI時代の知性の試金石だ。
ネガティブ・ケイパビリティとは、その衝動に抗う能力のことだ。あいまいさのなかに留まり、答えを急がず、複数の声が共存する空間を維持する。フローとしての知を、ストックとして固定することを拒む。その能力こそが、大正教養主義者にも学生運動家にも令和人文主義者にも欠けていたものだ。
次回はこの問いをさらに深め、収束の欲望が最終的に向かう場所──教養論と陰謀論の融合、そして形而上的ファシズムへの転化──を考察したい。AIが不確実性を遍在させるほど、この融合への圧力はなぜ高まるのか。ベイトソンとカイヨワが合流する地点から、現代の大衆動員の論理を読み解いていく。