用立てされる“教養”——知の収束と前衛主義の系譜
1:フローとしての知、ストックとしての教養
目次
内生的成長論から考えること
1980年代から90年代にかけて、経済学者のポール・ローマーは、経済学が長らく回避してきた問いに正面から向き合った。
なぜ経済は成長しつづけるのか?
ローマーに先立つ新古典派経済学者ロバート・ソローは経済成長を次のように説明しようとした。まず生産量の成長を労働・資本・技術の寄与に分解し、それぞれを数式で割り当てていく。設備投資の増加による資本の寄与、労働人口の拡大による労働の寄与といった、説明可能な要素を丁寧に積み上げてもなお、成長の相当部分がどうしても説明がつかずに余ってしまう。この余剰こそが「全要素生産性(TFP:Total Factor Productivity)」、別名「ソロー残差」だ。TFPとは平たく言えば、資本でも労働でも説明できない、投入量では測れない生産力の底上げともいうべきものだ。ソローはそれを経済システムの外部からもたらされる(つまり外生的な)技術進歩として扱った。説明できない「外生変数」として括弧に入れたのだ。
ローマーがその点を問い返した。ソロー残差の正体は何か?
ローマーの答えは明快だった。知識こそがソロー残差の正体なのだ。しかもそれは外からもたらされるものではなく、システムの内部で人々の相互作用と試行錯誤のなかから内生的に生まれる。だから、これを「内生的成長理論」という。
ローマーが見抜いたのは、知識が物的資本とは根本的に異なる性質を持つという点だ。設備や資本は使えば減り、誰かが使えば他の誰かは使えない。これは物理の世界でいう熱力学の第二法則そのものだ。エネルギーは使われるたびにエントロピーが増大し、有用なかたちで再利用できなくなっていく。石炭を燃やせば灰になり、工場の機械は摩耗し、資本は消費される。経済学ではこの性質を「競合性」と呼ぶ。
しかし知識は違う。あるアイデアを誰かが使っても、他の誰かが同じアイデアを使うことを妨げるものではない。これを指して「非競合性」という。リンゴは分ければ減るが、微分積分の知識は世界中の人が同時に使っても減らない。むしろ共有されることで応用が広がり、新たな知識を呼び、収穫逓増をもたらす。
この非競合性こそが、アダム・スミス以来の定説を覆す。市場に任せれば競合によって利益が均されていく、あの「神の見えざる手」すなわち収穫逓減の論理を、知識は無効にする。まったく新しいアイデアが生まれるとき、市場はその価値に見合った価格をつけられない。だからこそ経済全体が次の水準へと跳躍する。それが内生的成長の核心だ。
内生的成長理論がもたらす洞察は経済学を超えた認識論的射程を持っている。知とは、おいそれと外から注入して増えるものではないという何よりの事例となるからだ。ストックとして所有し資産として蓄積し、必要に応じて引き出せる備蓄品ではないのだ。知はフローとして、他者との相互作用のなかで絶えず生成され変異し増殖する。共有されるほど豊かになり、独占されるほど貧しくなる。これこそ知の本性だ。教養論者が「体系として知を所有する」という発想でアプローチする限り、その知は非競合的な豊かさを失い、ただ消費されるだけになる。有限の資産に堕ちるわけだ。
フローしなければ暗黙知は損なわれる
この視点で眺め直すと、現代の教養ブームの構造的な問題が見えてくる。経営学の泰斗ピーター・ドラッカーが「ナレッジワーカー」と呼んだ知識労働者の価値は、知識をストックとして所有することではなく、フローとしての知識創造に参与することにある。
マイケル・ポランニーが『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)で示したように、「われわれは語れる以上のことを知っている」のだ。言語化できない身体的/経験的な知の集合として、わたしたちは存在している。自転車の乗り方をテキストで説明できても、テキストを読んだだけでは乗れないように、暗黙知は伝達ではなく実践と共同作業のなかでしか移転しない。
教養を体系として外から注入しようとする発想は、この暗黙知の次元をまるごと無視している。乗り方をテキストで学べば、自転車に乗るための「知識」は得られるだろう。しかしそれは自転車を乗りこなすこととはまったく次元が違う。そのテキストを他の誰かに渡しても、自転車に乗れるようにはならない。言語化され体系化された形式知だけを「知」とみなし、それを外生変数のように注入すれば、人は成長すると信じるが、その注入された知はストックとして固定されてしまい、実践を通じて暗黙知としてフローせず、次の知を産まない。暗黙知がフローしないといったとき、伝統芸の継承が途絶えることもこれにあたるだろうし、伝統芸に固執しすぎて変化がないことも同じだろうとわたしには思われる。
いまの教養ブームが示しているのは、フローとは正反対の欲望だ。
「教養としての〇〇」「ビジネスパーソンのための哲学」……。書店に溢れるこれらの言葉は、知を外生変数として調達しようとする身振りにほかならない。知識を体系として所有し、スキルとして蓄積し、実用の場面で運用する。知をストックとして管理しようとするこの発想の根底には、知が“偏在”を前提とするという思い込みがある。特定の主体に帰属し、独占されることで価値を持つ。それは知をめぐる偏在の論理だ。
しかし知の本質はフローにある。フローは“遍在”を志向する。流れるものは特定の場所に止まらず、共有され、循環し、変異しながら増殖する。AIが知を遍在化/フロー化するほど、人間は逆説的に、ストックとしての教養に殺到してしまう。知識の優位が消滅しつつある時代に、人間はなぜ知の偏在を求めるのか?
この逆説を解く鍵が、ハイデガーの技術論にあると考えている。
DXが企業において頓挫する理由のひとつも、この認識論にある。第2回で論じたダブルバインドに加えて、DXを、外部から調達するソリューションとして捉える発想そのものが問題だ。コンサルタントが体系化したベスト・プラクティスを注入し、それを資材として運用する。これは外生的成長への欲望だ。しかし組織の真の変容は、内部の相互作用と試行錯誤のフローから発散的に生まれる。外部から正解を調達しようとするDXは、用立てられた“教養”のように、変革の可能性を固定した途端に消してしまう。
ハイデガー的教養批判
哲学者のマルティン・ハイデガーは、近代技術の本質を「用立て(Bestellung)」と呼んだ。近代技術は、自然をあるがままに現前させるのではなく、エネルギーとして採掘し、管理可能な備蓄(Bestand)として支配する。ライン川はもはや「ライン川」ではなく、水力発電のための供給所として存在させられる。技術の眼差しが向けられた途端に、存在はその豊かさを失い、資源として一義的に固定され、支配されてしまう。
功利主義的な教養論は、この論理を古人の叡智に適用している。哲学をビジネスに使える思考フレームとして用立て、歴史を現代ビジネスの選択肢や判断基準として備蓄し、古典を自己啓発のリソースとして採掘しようとする。
しかし、ハイデガーが警告したように、用立てられた途端に、本来の現れ方の可能性は閉じられる。ライン川が発電所になった瞬間に「ライン川」が消えるように、資産として用立てられた教養はもはや教養ではない。
思い出すのは、詩人ジョン・キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念だ。キーツは1817年の手紙のなかで、シェイクスピアの偉大さの秘密を「不確かさや謎や疑念のなかに、いらだちを感じることなく留まれる能力」と定義した。答えを急がず、解決を求めず、あいまいさに耐えること。それが真の創造性の条件だとキーツは論じた。
わたしはここで注意しておきたいことがある。近年、ネガティブ・ケイパビリティはビジネス知識人のあいだで流行語になりつつあるが、その使われ方には違和感を覚える。「正解主義へのカウンター」「答えが出ない状況でのストレス耐性」といった文脈で語られることが多いが、それはキーツの本意を矮小化している気がする。ネガティブ・ケイパビリティとは、生命や自然のように本来的につかみどころのないもの、定義しきれないもの、解消できないものを、それとして許容し共存する能力のことだ。なにかに依存したいという執着から自由であることだ。それはそもそも、正解があるかどうかという次元の話ですらない。
この流行そのものがすでに病んではいまいか。ネガティブ・ケイパビリティを使える概念として用立て、ビジネスの文脈に備蓄しようとする欲望こそ、ネガティブ・ケイパビリティが本来批判している身振りそのものだ。あいまいさを解消し、問いを閉じ、答えを備蓄する。教養をストックとして管理しようとする欲望は、ネガティブ・ケイパビリティを標榜しながら、その正反対を生きている。
体系化され、備蓄される教養は、ベイトソンのいう「予測可能な出来事の連続」でしかなく、その予測可能性ゆえに収束するものだ。収束した知は安定する代わりに、みずからを超える力を失う。次の知を産まず、予期せぬ接続を生まず、既知の体系を確認しつづけるだけになる。
知と知が予期せぬ角度でぶつかり合うとき、どちらにも含まれていなかった何かが突然生まれる。これが創発だ。ジャズのセッションで奏者たちが互いの音に反応しながら、誰も事前に想定していなかった旋律が立ち現れる瞬間がそれに近い。
しかし創発は予測可能性の外側にしか生まれない。ストックとしての知は“偏在”を前提とし、フローとしての知は“遍在”を志向する。ハイデガーの備蓄もソローの外生変数も、キーツのネガティブ・ケイパビリティも、すべて同じ認識論的な誤謬を招く。知を流れるものとして手放すのではなく、固定して所有しようとする欲望のせいだ。
見える化/言語化ブームも同じ論理にある。暗黙知を形式知に変換すれば管理・移転・資産化できると考える。この変換によって失われるものについては省みることもない。
ライン川が発電所になった瞬間に「ライン川」が消えるように、言語化された瞬間に暗黙知の本質的な部分は失われる。外科医のメスを入れる感覚、職人の指先に宿る判断。それらは言語化によってストックに変換された途端に、もはや暗黙知ではない。フローとしての知は、言語というストックの器に収まりきらない。