イノベーションを加速させる安全と信頼の設計図
AIセーフティ・インスティテュート所長 村上明子氏に聞く
第1回 技術と社会を結ぶキャリアの原点にあるBASICプログラミング
AIセーフティ・インスティテュート所長の村上明子氏が小学校2年生の誕生日に贈られた一台のパソコン――それは氏に「使う」ではなく「つくる」という視点を与えた。建築家の父のもとでBASICに触れ、ゲーム制作からプログラミングへと関心を深めた体験は、やがて物理学、自然言語処理、そしてAI開発へと連なった。技術と社会を横断するキャリアの原点をひもとく。
取材:2026年2月9日 AIセーフティ・インスティテュートオフィスにて
村上 明子(むらかみ あきこ)
AIセーフティ・インスティテュート所長。SOMPOホールディングス執行役員常務 グループChief Data Officer。日本アイビーエム東京基礎研究所、同東京ソフトウェア開発研究所を経て、損害保険ジャパン入社、DX推進部長、執行役員 CDaO(Chief Data Officer)を経て現職。同社データドリブン経営推進部長を兼務。内閣府AI制度研究会座長代理ほか政府・自治体関連委員、一般社団法人言語処理学会理事ほか研究関連委員、経団連デジタルエコノミー推進委員会企画部会長ほか民間団体委員などを多数務める。また災害発生時に情報の収集・活用・発信に関わる支援活動を行う一般社団法人情報支援レスキュー隊 IT DART(IT Disaster Assistance and Response Team)設立メンバーであり、監事を務める。
目次
小学校2年生の誕生日プレゼントはパソコンだった
都築 正明(以下、――)村上さんがコンピュータに触れたきっかけをお話しください。
村上 明子氏(以下、村上)私の父が建築家で、まだ珍しかったコンピュータを仕事に使っていました。子どもにもパソコンを使わせたかったようで、小学校2年生の誕生日プレゼントとしてパソコンをもらいました。家にパソコンのある家庭が珍しかった頃のことです。私自身はゲーム機のファミリーコンピュータが欲しいと言っていたのですが買ってもらえず、父に「ゲームをしたければ自分で作れ」といってパソコンを買い与えられたのです。父からBASICを教えてもらい、ちょっとしたゲームを作って遊びはじめました。3〜4年ほどそうしたことを続けているうちに、ゲームよりもプログラミングのほうが面白くなっていました。
――当時は「BASIC MAGASINE」や「I/0 DATA」などの雑誌にプログラムを投稿すると、よいものであれば年齢を問わず掲載されていました。
村上 小学生のプログラムも雑誌に掲載されていましたし、秋葉原には電機店の前にパソコンのデモ機が置いてあって、家にパソコンのない子どももそこでプログラムを打たせてもらったりもしました。小学校のころ、つくば万博に行ったことを鮮明に覚えています。コンピュータに熱中するなかで、世の中のテクノロジーは成熟しきっているのではないかと感じていたのですが、万博ではさまざまな企業のパビリオンでテレビ電話やリニアモーターカーを出展していたのをみて、技術が進化途中だという衝撃を受けました。そのころ、研究者になりたいと感じていました。私は中学受験をしたのですが、受験勉強が忙しくて時間がなくなったことや、中高一貫の女子校に入学してからは周囲に同じ興味を持つ友だちがいなかったことから、コンピュータへの熱は冷めて、日本舞踊部に属して踊りに打ち込んでいました。一方、受験を意識することなくのびのびと教えてくださる先生の影響も多く、科学や物理への興味が深まりました。関心を抱いたことが功を奏したのか物理の成績がよく、大学では物理学科に進学したいと思いました。
――大学進学の際には、どのような進路を考えていらしたのでしょう。
村上 系列の大学にも物理学科はあったのですが、コンピュータからは距離を置いていたものの科学技術系の研究者への憧れが強く、工学系の研究ができる大学に進学したいと考えて、外部受験をしようと考えました。国立の女子大学に入学したのですが、工学や物理への思い入れが強すぎたせいか、当時のあまり前に出すぎない学風に違和感をおぼえて、1年次のゴールデンウィークのころにはほかの大学に入りなおすことを考えました。現在の女子大は元気なので、今ならば退学を選択しなかったかもしれません。
――その後、早稲田大学の理工学部に進学されました。
村上 男性と女性とを分け隔てることがなく、好きなものを好きだと公言してよい早稲田の学風は私には馴染みやすく、楽しく有意義に大学・大学院の学生時代を過ごしました。物理を専攻したのですが、やはり理論系よりも工学的なことに興味があり、金属の合成合金の研究をしました。実験も非常に楽しく、充実した日々を送っていました。金属物性では、たとえばプラチナとマグネシウムを混合して金属間化合物をつくったりするのですが、割合まで含めると組み合わせは無限にあります。ですから自分がどのような金属と金属を混合した合金をつくろうかというときには、過去にどのような配分の合金が作られ研究されているかを知るために大量の論文を読まければならないのです。日々、大量に積まれた論文を読みながら実験もしなければなりません。誰かこの論文を整理してくれたらいいのに――そう思っていましたので、今考えると、このころの私は情報を処理するAIの登場を待ちかねるなかの1人だったのだと思います。実験には、徹夜で真空を維持したりと体力が必要で、男女の体力差を実感することもありました。
――学生のころは、日産のウェブページの制作のお手伝いもされていたと伺いました。
村上 大学に入って自動車に乗るようになり、ドライブとともに自動車そのものも好きになりました。親から買ってもらった車に乗っていたのですが、その車が日産製でした。そこで日産の情報を調べていくと、まだ自動車メーカーがほとんど公式ページを持ってないなかで日産のホームページがありました。当時はインターネットの黎明期で、学生のほうがインターネットをよく知っている時代でしたし、ウェブマスターにも直接メールを出せる時代でしたから、こうしたらよい、ああしたらよいというメールをウェブマスター宛てに送ったのです。今となっては生意気な話ですが、非常に寛大な方たちで、話を聞きたいから編集部に遊びに来てほしいとさそってくださいました。遊びに行ったところ、そのままアルバイトで採用していただき、企画を出したり取材に行ったりと、楽しくホームページを作っていました。
IBMで自然言語処理と“Watson”に携わる
――大学院修了後はIBMに入社されましたが、やはり情報系の仕事に就こうと思われたのでしょうか。
村上 金属物性を研究していたので、ハードウェアの研究チームに入るだろうと思って面接を受けました。そこで、自分の研究についての話をしたのですが、先ほどお話しした論文の整理に興味があることも話したところ研究所の方が面白がってくださり、入社後には自然言語処理の研究の仕事をいただきました。当時の自然言語処理は、文法をはじめとする統語のルールを人間が規定してコンピュータが理解するルールベースから、多くのテキストからなる言語コーパスからコンピュータが統計的に処理する時代に移りかけていた時代でした。自然言語処理は専門ではありませんでしたが、物理を研究していたなら統計はわかるでしょうということで、研究をオファーしていただいたのです。私自身も、日産ではメールの自動振り分けなどに着手していましたのでとても関心をおぼえ、IBMでの研究分野を自然言語処理にしようと決めました。自然言語処理にもさまざまレイヤーがありますが、私は構文解析や機械翻訳よりも、それを使った情報抽出やソーシャル分析に多く取り組んでいました。
――IBMのAI(Augmented Intelligence:拡張知能)」Watson」にも関わられたそうですね。
村上 IBMには、10年ほどのロングスパンで大きな課題にチャレンジするグランドチャレンジということを行っていました。このグランドチャレンジとして最初に有名になったプロジェクトが、コンピュータでチェスに挑んで勝利した“Deep Blue”です。それに続いて行われたのが、アメリカの人気クイズ番組「ジョパディ!」で人間にクイズで勝つという“Watson”のチャレンジでした。このプロジェクトは全世界のIBMリサーチから限られたメンバーが連携して行われたプロジェクトで、私はそれを外側からサポートする立場にありました。非常に面白いプロジェクトで、製品として世の中に出るときには、私のいた研究チームも製品化に協力させていただきましたし、ソフトが販売されてから数年経って、新しい製品を出していくときには開発をする際には、基礎研究からソフトウェア開発に異動して“Watson”にはずっと関わっていました。
――“Watson”のプロジェクトでは、どのようなことをされていたのでしょう。
村上 基礎研究をしていたころにはさまざまな立場で関わっていたのですが、開発に異動してからは大量の文書の中から情報を抽出する製品の技術リーダーをしていました。また後半は“Watson”製品の自然言語に関わる製品のユースケースを作るためにユーザーと対話をして、新しい機能が必要であればそれを製品開発に取り入れるアドボケイトという仕事に従事していました。
東日本大震災後に技術ボランティア団体を立ち上げる
――2011年の東日本大震災の際には技術ボランティアに従事され、一般社団法人も立ち上げられたそうですね。
村上 震災直後は被災者のお役に立つことをしなければと居ても立ってもいられず、ボランティアについて色々と調べていました。当初は泥のかき出しや瓦礫の除去などのボランティアや傾聴ボランティアなどが中心で、さほど体力のない私には役に立てそうになく、残念に思っていました。ITスキルを災害復興や今後の防災に役立てられないかと悩んでいたところ、IT系には同じことを考える方が多くいらっしゃることを知り、2012年ごろにITを用いてどのように貢献できるのかを相談しました。「IT ✕ 災害」というイベントを繰り返し、なにができるのかを話し合うなかで、IT技術で防災・減災の活動を支えていくことが重要だという結論に至り、仲間といっしょにボランティア団体を立ち上げました。
――具体的にはどのような活動をされていたのでしょうか。
村上 IT DART(IT Disaster Assistance and Response Team:情報支援レスキュー隊)という一般社団法人です。DMAT(Disaster Medical Assistance Team:災害派遣医療チーム)についてお聞きになったことがあるかと思います。DMATは、緊急性の高い災害現場に、医療知識を持った人と情報を集める人とがペアを組んで、先遣隊として現地に入って救命にあたります。私たちが行っているのは、情報をきちんと整理しておくことです。災害の現場では情報が錯綜して、どの避難所に行けばよいのか、どこに行けば誰に会えるのかといったことが混乱しがちです。私たちは、ITを用いて情報を整理することで、現地でボランティア活動される方たちを支援します。具体的には、企業に協力を募って通信がない被災地に通信機器を現地にお届けしたり、ボランティアセンター内のニーズのマッチングなどのお手伝いしたりといったことを行っています。