作者の死から読者の死へ──生成AI時代の読書を考える
第4回 プルーストとイカの間
人間は「読むように」進化したわけではない。読む能力とは、視覚・言語・記憶・注意といった既存の脳回路を再接続し、後天的に獲得された文化的技術である。メアリアン・ウルフ『プルーストとイカ』は、その事実を神経科学と読書史のあいだで描き出した。読書は情報取得ではなく、推論し、共感し、自己を組み替えるための時間を脳内に生み出す営みでもある。生成AIが要約し、速さが価値となる現在に「読む脳」はどのように変わりつつあるのか。
目次
読む能力は遺伝的なものではない
タフツ大学教授の認知神経学者メアリアン・ウルフ著『プルーストとイカ:読書は脳をどのように変えるのか?』(小松淳子訳/インターシフト)において、人間は読むようには進化していないということを示している。人類は、話す能力については進化的にある程度の準備がなされているが、数千年にすぎない文字の歴史は、遺伝的に「読む脳」が備わるには短すぎる。したがって読書とは、生得的能力ではなく、既存の脳回路を流用し再編成して成立した文化的技術である。同書でウルフは、子どもが文字を習得する困難さや失読症の例などを挙げながら、読書がいかに複雑な神経的協働の産物なのかを示す。また、読む行為は単なる情報取得ではなく、推論・想像・共感・批判的思考を育てる高度な精神活動でもある。同書の奇妙なタイトルは、記憶と意識の深層を描いたマルセル・プルーストを文学的体験の象徴として、神経科学史において巨大軸索を提供してニューロンの伝達機構解明に寄与した動物神経科学的実験対象であるイカとを対置し、文化的営為であると同時に脳神経学的事件でもある読書という行為を往来する本書のテーマを象徴するものである。
ウルフの中心的主張は、上述の通り人間には言語能力の進化的基盤があり「話す」ようには進化したものの、文字の歴史は自然選択が読書専用器官を準備するには短すぎて「読む」ようには進化していないということだ。読書とは、既存の脳回路を再編成して視覚・音韻・意味・記憶・注意といった複数の認知機能を接続することで成立した後天的技術である。この議論は、スタニスラス・ドゥアンヌが『脳はこうして学ぶ:学習の神経科学と教育の未来』(松浦俊輔訳/森北出版)で示した“神経リサイクリング理論(Neuronal Recycling Theory)”や『意識と脳:思考はいかにコード化されるか 』(高橋洋訳/紀伊國屋書店)で示した“グローバル神経ワークスペース理論(Global Neuronal Workspace Theory)”と響き合うものでもある。脳は新しい器官を作るのではなく、古い回路を使い回しながら文化に適応するのだ。
プルーストとイカの間にあるもの
本書は、読書研究をfMRI・PET・ERP/EEG などの脳画像研究と照らし合わせながら、神経科学的と教育学・読書史を連結させていく。ウルフによると読書は文字を音へ変換するデコーディング作業ではない。熟達した読者の脳は、文字認識を高速に自動化することで余剰時間を生み出し、その余剰こそが、推論・批判・共感・内省といった高次の思考を可能にする。私たちが小説を読みながら他者の感情に入り込み、哲学書を読みながら自己を疑い、歴史書を読みながら時代の複雑性を追体験できるのは、読書が単なる情報取得ではなく、思考のための時間を脳内に生成する技術である。
この視点は、デジタル環境に対して鋭い問いを投げかける。SNSのタイムライン、通知に寸断される注意、検索による即時回答、要約文化──私たちはかつてない量のテキストに接しているようでいて、実際には「読む」より「走査する」ことに慣らされつつある。ウルフが危惧するのは、メディアの変化そのものではなく、脳の可塑性ゆえに、その環境に最適化された読みの回路が形成されることだ。短文・高速・断片的入力に適応した脳は、長文・遅延・熟考を要する読書に必要な回路を徐々に弱めるかもしれない。
生成AI時代において、本書の意義はさらに増している。AIは要約し、説明し、文章を代筆する。しかしAIが代行できないものがあるとすれば、それは読書によって形成される内的対話の時間である。他者の文章に触れ、自分の先入観と衝突し、理解に逡巡し、考えを組み替える過程では、速度より摩擦が重要になる。効率化された知識摂取ではなく、回り道としての思考が価値を持つ。
プルーストとイカの間にあるのは、人間が文字を通じて自らの脳を作り変えてきた歴史である。その歴史の延長線上にある生成AI時代では、新しい問いが提起される──AIが文章を読み書きする時代に、人間はなお読むことによって何者になれるのか。
読字障碍(ディスレクシア)当事者の世界認識
『プルーストとイカ』はまた、読字障碍(ディスレクシア)についての深い理解を喚起する書籍でもある。同書には、ウルフの子どもがディスレクシアの当事者であり、その苦悩を共有してきたことに起因することが告白されている。
ディスレクシアのある有名人は数多い。科学者ではアルベルト・アインシュタイン、トーマス・エジソン、アレクサンダー・グラハム・ベル、芸術家ではレオナルド・ダ・ヴィンチ、パブロ・ピカソ、ミケランジェロ、ジョン・レノン、現代の有名人ではトム・クルーズ、スティーヴン・スピルバーグ、オーランド・ブルームなど、起業家ではスティーブ・ジョブズ、リチャード・ブランソンなど、枚挙に暇がない。文字を自在に操る作家にディスレクシアのある者はいないようにも思えるが、アガサ・クリスティ、F・スコット・フィッツジェラルド、ジュール・ヴェルヌなど、錚々たるメンバーが並ぶ。こうして列挙してみると、読書の特権性などを言い立てるのが気恥ずかしくも思える。
2008年に刊行された同書の帯には、当時東京大学教授だった進化学者・佐倉統の「読み終わるまでに、感動のあまり三度涙した……科学書を読んで泣いたのは初めてだ。名著である」と「月刊 文藝春秋」掲載の書評が引用されている。先日佐倉氏にお会いする機会があり、そのことに触れたところ「3回も泣いたかな……」とは言いつつも、著者の実存的な研究動機に触れて深く感動したことをお話ししてくれた。
先に述べたように、読字に固有の脳神経は存在せず、脳機能はリサイクルされ、さまざまな用途に応じて形を変える。読字の意味が変わることによって、私たちの脳は、社会はいかに変容しつつあるのか。そのとき社会のメンバーはいかに構成されるのか。本書を読むと、読むという行為が変容した現代社会の先行きにも思いを巡らせざるを得ない。