作者の死から読者の死へ──生成AI時代の読書を考える
第3回 文字によってもたらされたもの/失われたもの
文字は、単に声を写し取る記号ではない。時間のなかで消えていく声を空間へ定着させ、思考を外部化し、反省し、蓄積することを可能にしたテクノロジーである。W・J・オングが示したのは、書字文化が知の形式だけでなく「内面を持つ個人」という近代的主体そのものをかたちづくったという視点だった。活版印刷はその変化を加速させ、読書は自己形成の制度となった。ネットワークと生成AIが支配する現在、文字文化はどのように変容し、私たちの思考や主体性をどこへ導こうとしているのか。
目次
書字は声を空間に定着させる技術である
書字文化と印刷術との関わりを補助線に大規模言語モデルへと接続することについては、本サイト服部桂氏へのインタビュー(https://it-hihyou.com/recommended/44440/2/)でお話を伺った。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系:活字人間の形成』(森常治訳/みすず書房)を想起する読者も多いだろうし、すでにお読みになっている方も多いと思うので、ここでは同書にも幾度か名前があがっているW・J・オング 『声の文化と文字の文化』(桜井直文・林正寛・糟屋啓介訳/藤原書店)を参照したいと思う。オングは、29歳だったマクルーハンを指導教員として修士号を取得してもいる。
オングは、16世紀フランスの哲学者・論理学者・修辞学者にして教育思想家であるペトルス・ラムスの研究の功績から、フランス政府よりナイトに相当する教育功労章シュヴァリエを受勲した史家・哲学者・英文学者である。ペトルス・ラムスは、アリストテレスなどの理性を用いて聖書や信仰を理論的に説明しようとしたキリスト教神学の論理学であるスコラ学が難解すぎるとして、弁証法的論理学を知識整理の中心に置きなおした教育改革と知識の再編を進めた人である。簡潔で教育に向いた知識整理の方法を主張し、概念を上位から下位へと二分法で配列していく整理していく手法は、後世にラムズ主義(Ramism)といわれる思潮に水路づけられている。プラトンが知は対話のなかでこそ生成するものとして応答性を重視して文字を危険なものとして警戒したのに対し、ラムスは知を構造として整理できるとして文字を主媒体に据え、知を図式化・構造化して訓練可能なスキルに置き換える方法論としており、両者の知への態度は好対照をなしている。
オングは主著『声の文化と文字の文化』において、まず言語の本来的な形態が声であることを強調する。言語は本来、時間のなかで生起しまた消滅するものであるとして、書き言葉は声を空間に定着させる技術であり、例外的なものであるにもかかわらず、近代以降の学問は書字を言語の標準として扱ってきたとする。
フェルディナン・ド・ソシュールは『一般言語学講義』(町田健訳/研究者)において「書かれるものは、話されることばをたんに視覚的なかたちに再現するにすぎない」として、言語記号を聴覚イメージであるシニフィアン(signifiant)と概念イメージであるシニフィエ(signifié)とに分類した。ソシュールの構造言語学においては個々の語に実態を置くことを否定し、時間のなかで連なり意味を分節する音声こそが差異の体系としての構造を捉えるのにふさわしいとされたため、語に分かたれる文字言語が警戒された。こうした音声言語を特権化する姿勢がジャック・デリダにより批判されたのは、前回記した通りである。
近代的主体は文字によりもたらされた
『声の文化と文字の文化』においてオングは、オラリティー(声の文化)からリテラシー(文字の文化)へと世界が変わるなかで人の思考の構造が変容した様を詳細に追っている。言葉が視覚的対象として固定されたことで、人は思考を外部化し、それを再検討することが可能になる。これにより言語は流動的なできごとから操作可能な対象へと転じる。その結果、分析や分類、体系化といった認識形式が発達して論理的思考の基盤が整備される。ここでは、かつて対話において胚胎されていた思考は個々の内面に閉じたものとなる。ここで書字は「自己を観察する主体」を生じさせ、近代的な内省の条件を準備する。言い換えれば、書字は思考を拡張すると同時に、特定の形式へと拘束する技術的条件でもある。また視覚化された言語が分割・比較・再配置を可能にしたことで、抽象的概念の操作が促進され、哲学や科学といった体系的な知が成立する条件が整う。
活版印刷の登場は、書字文化をさらに一段階押し進める。大量に複製され均質化されたテクストが流通することで、個々が同一の情報環境にアクセスできることで知識が標準化される。このことから、黙読という行為が普及して思考はさらに内面化されていく。印刷はまたテクストを静的な対象として扱うことを可能にした。その結果「自律的な個人」という近代的主体が想起されるようになり、読書は自己の内面を形成する制度的基盤となっていく。
人間の意識に生まれた内面という空間は他者から切り離された思考の場を形成し、自己との対話を可能にする。この内面的独白が近代的主体といわれるものである。これは自然発生的なものではなく、書物というメディアの産物である。私たち自明視している自己意識は書字文化による構築物であり、普遍的な人間本性ではない。オングのこうした見立ては、主体や意識をめぐる哲学的議論をメディア論的に再定位するものである。
ここで再び冒頭の黙読についての議論に立ち返ってみると、脳内音読は音読の名残を留めているといえるかもしれないが、視読については技術的に構築された言語情報の取得方法だといえるだろう。
さらに電子メディアの登場は口承文化の復活をもたらした。しかしそれは文字文化を経由した“二次的口承”である。ラジオやテレビ、インターネットにおいて言語は再び声として流通し、共同体的感覚を喚起するものの、その背後には書字によって構築された論理構造が常に介在する。対話的で即時的でありながら高度に技術化された言語環境がという二重性が現代のコミュニケーションの特徴である。ピーター=ポール・フェルベークは『技術の道徳化:事物の道徳性を理解し設計する』(鈴木俊洋訳/法政大学出版局)で、テクノロジーを介してつくられた成果物と人とが相互浸透していることを述べている。これを敷衍すれば、身体的な声と精緻な技術としての文字とは、コミュニケーションのレベルで相互浸透した結果、電波やデジタルネットワークにおいて再び統合しつつあるとも考えられる。