作者の死から読者の死へ──生成AI時代の読書を考える
第2回 生成AIは毒にも薬にもなるファルマコンなのか
生成AIは「書く者」を脅かすのか──そうした問いが注目される一方で、いま静かに変わりつつあるのは「読む者」の側かもしれない。要約が読解に先回りし、長い文章に向き合う時間が失われるなか、テクストの読者はどこへ行ったのか。プラトンが文字を毒にも薬にもなるファルマコンに喩えたように、新たな知のテクノロジーとしての生成AIもまた、人間の思考を拡張しつつ衰弱させる両義性を宿している。文字文化の歴史をたどりながら、AI時代の読書と主体のゆくえを考える。
目次
読者はどこに行った
小説家の平野啓一郎は2026年3月9日に、次のようなポストをしていた。
どうしてみんな、文学に関して、作者がAIに取って代わられることばかり心配して、読者がAIに取って代わられることを懸念しないのか? 現在、猛然と進んでいるのは、むしろ「読む」という行為をAIが代替して、人間が自分で読まずに要約を受け取るような状況。影響力の規模的には、こちらの方が恐らく深刻だろう。本好きは勿論、自分で読み続けるだろうが、『魔の山』とか、一番読んでいるのは、今や人間ではなくAIではないか。
──平野啓一郎 Keiichiro Hirano(@hiranok:Xアカウント)
長編小説を読む愉しみが、一部の好事家のものとなっていることは予てから指摘されていた。名作とされる小説作品のあらすじ集、それに“◯分でわかる✕✕”や“超訳”と題されたベストセラーやテレビ番組は以前からいくらでもある。そしてそのたびに「✕✕なんて◯分で読める」「そんな言葉は原典には載っていない」と気取る者も現れる(筆者も身に覚えがある)。
昭和の時代から、書籍を解説やあとがきから読むことは、ズルをすることのように言われており、文庫のあとがきや解説には「世の中には本をあとがきから読む人がいるらしいが」「本書をあとがきから読む人のために」と断り書きを入れることが──そして文末はそれが亜流であることを匂わせつつ「ぜひ本文をお読みください」と締めることが──定型化している。そもそも本にカバーをかけることからして日本独自の慣行であり、その上に著名人のコメントを入れた帯を巻くこともまた諸外国には見られない販売方法である。レコードやCDの“ジャケ買い”のような効果はあるものの、著者より訳者の名前がカバーに大きく印刷され、さらに訳者より推薦者の名前が大きく帯に印刷されているというのも、海外の出版社からすると奇妙なことに違いない。そう書いている筆者とて、編集者として帯の推薦者を依頼することに汲々としたことが幾度もあるため、これに異を唱えることは能わない。
とにかく、要点抽出や要約がテクストを読むことそのものが、大きく変容していることは間違いない。インターネットが普及し、電子書籍が本格始動したときには、多くの記事に「グーテンベルクが活版印刷を発明して以来の」というフレーズが枕詞のように冠せられていたが、もはや文章は読者を増やしたのではなく、AIという人間ではない読み手を見つけた──背後に、又聞きを待ち構えている人間を集めつつ。
ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光訳/みすず書房)所収の「作者の死」にある有名な言葉「読者の誕生は“作者”の死であがなわれねばならない」の言葉は、むしろ現代においてはテクストの読者の存在を否定しようとするものに変容しつつあるのかもしれない。
回帰するソクラテスの憤りと現代人の焦り
本連載「無知を問うアグノトロジー(無知学)とジェンダード・イノベーション(https://it-hihyou.com/recommended/50433/)」でも触れた通り、プラトンは著書『パイドロス』(藤澤令夫訳/岩波文庫)において、ソクラテスの文字批判について記している。同書の序盤は弁論家リュシアスが、恋愛に身を委ねるよりも、理性的な弁論において思索を深めることを主張したのに対し、ソクラテスが合理性と愛に酔う神的狂気とを、気高い馬と粗暴な馬の2頭立ての馬車に例え、理性において両者を御すことが重要だと説く。恋愛がイデアの世界を想起し、自己を高めるきっかけになるというのがその主張である。
リュシアスとの対話をきっかけに、中盤でソクラテスは有名なソフィスト批判を展開する。相手を説得する弁論術とは、単なる言葉の操作──これは昨今よくいわれる「言語化」「論破」という言葉を想起させる──において他者を言いくるめ、心理操作を行う技術ではなく、単なる真理の知識を持ち、相手の魂の状態を理解したうえでそれに応じて語ることだとソクラテスはいう。いいかえれば、言論とは魂に働きかける技術であり、よい言語(ロゴス)とは対象を正しく分割/統合できる言語のことで、レトリックは哲学に従属すべきということである。
後半では、ソクラテスは言語についてのこの認識をもとに文字を批判する。曰く、文字は知を保存するとともに思索を歪めるというのだ。想起の代替物である文字は記憶を弱め、文脈を選べないことで誰にでも同じ内容を提示する、そして一方的であるゆえに対話が不可能であるということだ。プラトンはエジプト神話の寓話「テウトとタムス」を例に、発明者テウトは統治者タムスに人間の能力を拡張するものとして文字を披露するが、タムスは文字は忘却をもたらす劇薬・ファルマコン(pharmakon)であるとして否定する。このファルマコンは、同書冒頭に掲げられているギリシアの「パルマケイアーの神話」に出てくる治療のための泉の名称に由来するもので、英語のファーマシー(薬局:pharcy)やファーマコロジー(pharmacology:薬理学)の語源でもある。この神話では、若き乙女オーレイテュイアがパルマケイアーの水辺で遊んでいた際に、北風に押されて奈落へと落下する。先に劇薬と称したのは、治療と同時に死をもたらすという両義性ゆえだ。
哲学者ジャック・デリダは『散種』(藤本一勇・立花史・郷原佳以訳/法政大学出版局)所収の「プラトンのパルマケイアー」において『パイドロス』を読み解くことで、内面・対話・魂といった真の知と、文字・外在・固定といった偽の知とを峻別して前者を称揚する既存の哲学の二項対立図式が曖昧であることを主張する。デリダはまず、前回示した声の特権化と同じ図式において、記憶は想起(アナムネーシス)というプロセスを経ているために純粋なものでないとする。そのうえで、外在化された知、つまりかつて補充物(サプリメント)とされていた文字はすでに内面へと侵入しており不可分になっていると指摘する。プラトンは毒の比喩としてファルマコンと称していた文字は、実際には毒であり薬でもあって知を成立させる与件になっており、その不安定こそが本質であるというのがデリダの論である。
文字を嫌悪したプラトンの姿は、今日的でもある──大規模言語モデルに代表されるAIを受容しつつ戸惑っている私たちの姿に似ている。本稿では、声を論じた前回に続き、文字の文化(リテラシー)が声の文化(オラリティ)にどのような変化をもたらしたのかを考え、現在の私たちについて考える補助線にしたい。