作者の死から読者の死へ──生成AI時代の読書を考える
第1回 ぼちぼち読めない私たち

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テキスト 都築 正明
IT批評編集部

文字は単なる記録の道具ではない。思考を外部化し、内省を可能にし、近代的な主体をかたちづくってきた技術である。生成AIと要約文化が浸透するいま「読む」という行為そのものが静かに変質しつつある。読書とは何か、思考とは何かを、改めて問いなおす。

 

目次

『ぼちぼちはたらくAI共生論』出版記念イベントから考える

読書には2種類ある

 

『ぼちぼちはたらくAI共生論』出版記念イベントから考える

去る2026年2月28日に、本サイト掲載記事を編集した『ぼちぼちはたらくAI共生論』(桐原永叔/「IT批評」編集部著/風濤社)刊行記念トーク&サイン会が、同書にインタビューが所収されている稲田豊史氏と勅使川原真衣氏とを招いて開催された。

稲田氏は、最新刊『本を読めなくなった人たち:コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ)において、前著『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)で記されたようなコスパ・タイパ志向が全景化した結果、書籍をはじめとする“遅いメディア”においては“ながら読み”ができないこと、また生成AIの普及により全文要約が容易になったことから、読書が忌避される傾向について述べた。

「本を読めなくなる」というテーマについては、昨年ベストセラーになった三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を想起される読者も多いかもしれない。同書では、かつて教養主義のもとに自己形成の手段として奨励されていた読書が、バブル期の栄養ドリンクのキャッチコピー「24時間戦えますか」に象徴される労働観を経て、仕事を通じた自己実現へと──三宅は『13歳のハローワーク』(村上龍著/幻冬舎)のヒットを典型例に挙げる──接続されるなかで、ノイズに塗れた非効率な読書という行為を退け「読めなくなったのは、あなたが悪いのではない。読めない構造があるのだ」と分析している。

東京大学で教育社会学を学んだのちにキャリアコンサルタントに転じ『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社新書)ほかの著作のある勅使川原氏は、最適化を求める企業組織のありようについて批判的な視座を向け、会場からの「AIを正解とする社風をどう思うか」という問いにも鋭い回答を寄せていた。

もっとも、人々が書籍を手にしなくなったことはテレビが普及した1960年からいわれており、1980年にはマークシート式の大学入試や若者文化の多様化が「活字離れ」を引き起こしたとされ、2000年には学習指導要領の“ゆとり指針”を指弾する学力低下論において「直立させられない教科書」を象徴に同じことがいわれてきた。

2004年には、2000年から3年ごとに15歳を対象にOECDが実施するPISA(Programme for International Student Assessment:国際学習到達度調査)の読解力分野において2003年調査順位が8位から14位へとなったことが“OECDショック”と称され、次の2006年調査では15位へと下降したことから深刻な読解力不足がいわれるようになった。翌2009年調査からは8〜4位の間で回復したものの、2018年調査での順位が15位になると、また読解力低下論がいわれはじめた。本来は、ある世代の教育成果が3年単位で変動することは考え難いのだが、文部科学省や教育界はこの数字を教育成果の通信簿のごとく重視し、また「読解力がある」と自負する大人のポジショントークとしても使いやすいために、いまなお広く喧伝されている。

本連載前回の後半では声について書いた。今回は、書き言葉が私たちにどのような影響を及ぼしているのかについて考えてみたい──もちろん、本連載で書籍を紹介している筆者自身のバイアスを警戒しながら。

 

読書には2種類ある

黙読には“脳内音読(subvocalization)”と“視読(direct visual reading)”とがある。文章を読むときに、頭のなかで声を出すように音声化するのが脳内音読、文字の塊をそのまま頭に入れていくのが視覚認識的な視読である。周囲の人にどちらの傾向があるのかを尋ねてみると、かなりはっきりと二者に分かれる。どちらがよいということではなく、あくまで処理のスタイルである。

これは、近代読書研究の始祖といわれる心理学者エドモンド・バーク・ヒューイが1908年の著作“Psychology And Pedagogy Of Reading, With A Review Of The History Of Reading And Writing And Of Methods, Texts, And Hygiene In Reading”(Kessinger Publishing:未訳)においてはじめて述べたことである。ヒューイは読書中の眼球運動を科学的に測定し、読書中の眼球は文面を滑らかに追うのではなく。サッカード(跳躍)と注視を繰り返すことを発見したことで、読書が断続的な視覚処理の連続であるとした。彼は、読字は文字から音へ、音から意味へという経路を辿ることを主張し、読むことは話すことを内面化すると主張した。ヒューイによれば、読書理解は音韻的処理に依存しており、読書速度には生理的限界があるとして、読書能力は生得的な能力ではないことを指摘した。教育学者でもあった彼の論は、読書とは身体行為であるとともに知覚運動ループであり、内的発話を伴うとして、音読教育の推進に水路づけた。

ヒューイの説は、読書心理学として発展するとともに、脳神経科学とも相関しながらさまざまに研究されることとなる。実際のところ、読書に習熟した読者ほど脳内音読と視読とを使い分けるとされているものの、理解度について客観的に測ることができない以上、予測の域を出ないことは当然だ。語彙量の増加が指摘されている大学受験においては、英語や国語教科において速読の重要性が説かれることも多いようだが、文字を追う読み(scanning)や拾い読み(skimming)をして大意を把握する既存の──幾度も繰り返され消費されてきた──速読法や、ディスコースマーカーに着目するといった受験テクニックの域を出るものではないようだ。そもそも設問に解答することが文章理解度に直結するものだとは思えないし、結局のところ演習量を増やすといった従来の論を超えるものは出てこないだろう。

ともあれ、現在の研究成果として認知科学や神経科学で基準とされているのは、平均的な読書では脳内音読が60〜80%、視読が20〜40%といったところで、熟達すれば音韻処理を経ず意味に直接アクセスできる割合が増えるといったところのようだ。もちろん、読書量が増えるに伴って、既存の知識への“同化(Assimilation)”や、知識を書き換える“調節(Accommodation)”を経て“均衡化(Equilibration)”が、ジョン・ピアジェがシェマ理論において示したようなプロセスが──あくまでも認知全体でなく読字リテラシーの範囲ではあるが──重ねられていくことは想像に難くない。文学や思想などの読書では脳内音読の割合が高く、ニュースなどの情報読書では視読の割合が高くなる。熟練者の場合は、視読により重要だと思った箇所を脳内音読して深い理解へとつなげるため、視読の割合が50〜70%になるとされている。

第2回につづく