京都大学情報学研究科教授 谷口忠大氏に聞く
第1回 身体性を軸に知能にアプローチする

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聞き手 都築正明
IT批評編集部

知能とはなにか――身体と環境との相互作用のなかから心や意味がどのように立ち現れるのかを、ロボティクスを軸に構成論的に考察するのが、京都大学大学院教授の谷口忠大氏が開拓してきた記号創発ロボティクスの分野である。情報処理でもロボティクスでもない“越境戦”として人工知能分野に挑む谷口氏に知能から社会への切り口までを聞くインタビュー、第1回。

谷口 忠大(たにぐち ただひろ) 氏

谷口 忠大(たにぐち ただひろ)

1978年京都生まれ。京都大学大学院情報学研究科教授。博士(工学・京都大学)。2006年京都大学大学院工学研究科博士課程修了。立命館大学情報理工学部助教、准教授、教授を経て2024年より現職。その間、Imperial College London客員准教授などを歴任。現在、パナソニックホールディングス株式会社シニアテクニカルアドバイザーを兼務し、AI研究開発にも従事。また、一般社団法人Tomorrow Never Knows理事、一般社団法人ビブリオバトル協会代表理事、一般社団法人AIロボット協会(AIRoA)理事、株式会社ABEJA技術顧問、IEEE Cognitive and Developmental Systems Technical CommitteeのChair。専門は人工知能、創発システム、認知発達口ポティクス、コミュニケーション場のメカニズムデザイン。システム制御情報学会論文賞、Advanced Robotics Best Survey Paper Awardなど受賞多数。『コミュニケーションするロボットは創れるか』(NTT出版)、『記号創発ロボティクス』(講談社)、『心を知るための人工知能』(共立出版)、『イラストで学ぶ人工知能概論』(講談社)、『賀茂川コミュニケーション塾――ビブリオバトルから人工知能まで』(世界思想社)、『記号創発システム論ー来るべきAI共生社会の「意味」理解にむけて(ワードマップ)』(新曜社)など編著書多数。

目次

分野横断の越境戦で知能の解明に挑む

都築 正明(IT批評編集部、以下――)先生が、認知やロボティクスについてはじめに意識されたエピソードを教えてください。

谷口忠大氏(以下、谷口)ロボットアニメなどは好きでしたし、SFも好きでしたから人工知能やロボットというコンセプトはいつも身近にありました。特に好きだった人工知能の関係するアニメということなら、「新世紀GPXサイバーフォーミュラ」というアニメを挙げることが多いです。ひょんなことからドライバーになった主人公と、人工知能を搭載したレーシングカーとが近未来のレースに挑戦してグランプリを目指す中で一緒に成長していくというストーリーです。また「クリエイティブ大好きっ子」でもあって、小学校のときは漫画を描いたり、ゲームをつくったりしていましたね。いわゆるテーブルトークRPG(TRPG)なども好きで、中学生のころにはTRPGのリプレイ(プレイの様子を文章にしたもの)を小説化した『ロードス島戦記』が刊行されて、ライトノベルが流行する端緒にもなっていましたね。そうした世界観の影響も受けました。ちなみに高校生のころは演劇部だったりしました。

京都大学工学部に入学されてからの学部時代はどのように過ごされていたのでしょう。

谷口 そうですね。受験勉強の反動もあったのと、京都大学の「自由の学風」の影響もあったのか、学部の間はアカペラサークルを中心に課外活動が主戦場だった気がします。この時期に、研究者になる意志があったかというと、ちょっとわからないですね。京大の僕の在籍していた物理工学科の機械系では、4回生の春に研究室配属のイベントが生じるのですが、それが迫ってようやく、自分の研究や専門を真面目に考えるようになった気がします。もともと中高時代は数学が好きだったこともあり、理論的なことにも関心があったので、4回生では量子物性の研究室に入りました。のちに所属することになる椹木哲夫先生の研究室を最初は第1希望で考えたのですが、当時の椹木研究室は人気があって4倍近い倍率だったので、希望する前に第1希望で入れそうな研究室を選びました。なんといっても当時の研究室配属は「じゃんけん」で決まったので……、4倍の倍率を勝ち抜ける気がしなかった。とはいえ、やっぱり「知能」的なことをやろうと、修士から椹木研(デザインシステム論研究室)に入りました。人間と機械とが協調するにはどうすればよいかというヒューマンマシン・システムの分野で、ロボットやロボットと人間の関係性について考える研究室です。ロボティクスでもAIでもなく、機械系のなかでは少しAI寄りの研究室でした。大学院入試では素点で順位が高ければ、希望の研究室に行けるので、頑張って大学院入試勉強しました。

椹木研究室で、現在の研究への方向づけがなされるわけですね。

谷口 京大は「法治国家」ならぬ「放置国家」と冗談で言われたりする「自由の学風」があるのですが、椹木研はある意味でそういった京大の伝統を体現しているような研究室だったかもしれません。僕が言うことを聞かなかっただけかもしれませんが、いい意味で放任していただけたので、修士の間に、じっくりと時間をかけて、テーマを探索することができました。椹木研は本棚に認知科学や社会科学の本なんかもたくさんならぶ学際的な研究室だったので、広い幅から、当時の時代性の影響も受けながら、自分の問いを考えることができました。

結果的には、テーマを決めることがなかなかできず、修士論文のテーマが大体決まったのは修士2年目の秋頃だったと思います。そこまで待ってくれた先生の胆力に今では感謝ですね。

当時はAIについて身体性認知科学やアフォーダンスの議論などもてはやされていて、古典的な記号的AIを脱して何かオルタナティブが必要だという共通認識のもと、身体性を重視する潮流がありました。しかし、一方で、機械系に多かった身体性を重視する議論は重要なのですが、そこから言語や論理のような上位の認知機能まで到達しようとするような動きは少なかった。その距離感は絶望的に遠かったのです。当時、ロルフ・ファイファー先生の『知の創成―身体性認知科学への招待』の邦訳が京都大学におられる細田耕先生や東北大学の石黒章夫先生、東京理科大学の小林宏先生の翻訳で出版されて、それを研究室の輪読会で勉強しました。人工生命や複雑系、ロドニー・ブルックスの行動主義ロボティクスなども紹介された、身体性認知科学のはじめての大きな書籍です。その本の中で、スティーバン・ハーナッドの提唱した記号接地問題を知りました。

当時は今ほどの理解はありませんでしたが、記号接地問題は、重要な問題に思えました。記号を実世界と関連づけることは確かに重要だとは思いました。少なくとも言語の世界と、身体の世界の「間」の話を問題化している。

一方で、阪大の浅田稔先生らが立ち上げだした認知発達ロボティクスの関係などで、発達心理学者のジャン・ピアジェを知り、彼の提唱したシェマモデルがとても腑に落ちました。外界との相互作用から思考の枠組み(シェマ)を発達させていくという自己組織化的な知能観です。これは今も変わらないですね。

椹木先生から与えられたちょっとしたヒントもあり、修士論文ではロボットが持つセンサ・モーター・ループのなかから、シェマのような予測モデルが自律的に立ち現れる分化する学習システムの構築をテーマにして、モジュール型学習モデルである双シェマモデルを猛ダッシュで構築して、修士論文として提出しました。

博士に進まれてからは、その延長で研究をされたのですね。

谷口 そうですね。より俯瞰的な問題意識から始めていましたから、修士論文でできたことは導入に過ぎなかったわけで、外界との相互作用を通じて、身体性に基づいた知覚や行動の分節・モジュールがたち現れてくるようなプロセスを軸に研究を展開しました。これらの内容に関しては、2010年に出版した『コミュニケーションするロボットは創れるかー記号創発システムへの構成論的アプローチ』(NTT出版)に書いているので、よかったら御覧ください。

ちょうど深層学習がブレイクする前後の時代ですね。

谷口 そうですね。博士当時の研究は深層学習や機械学習の主流の文脈からは随分と遠い場所に居たかもしれません。人工知能という言葉も、ほぼ使っていませんでした。僕は機械系出身で、「人工知能」という言葉については決して「ホーム」ではない立場から研究者人生をスタートしました。そういう意味で、僕はプロパーなAIの研究室にいたことがないんですね。AI分野の中心と言えば、コンピュータービジョンとか、音声とかNLP(Natural Language Processing:自然言語処理)とか、あとは知識処理とかかと思いますが。AI分野では基本的には領域外から入ってきた外来種のような存在で、その越境戦を戦いつづけているという意識があります。僕の個性は、だからこそそうした分野の一つに固執することなく、全てに等しくアウェイの立場から学んで取り込んでいったことにあると思います。知能は統合的な存在なので、それがまた大切なのだとも思っています。

そう伺うと、分化した特定の学術分野だけで知性そのものの解明にアプローチすることには、はある種の傲慢さのようなものを感じます。

谷口 「傲慢」というのは強い言葉かもしれませんが、僕の研究は、いわば学際的に多様な分野を横断的に学び取り入れるスタイルです。特に僕は身体に基づく環境との相互作用を通した知能の自己組織化という描像を大事にします。基本的に、僕たちの認知システムは、五感や内受容感覚、また環境との相互作用を通じた情報しか得ることができません。僕の研究のモチベーションは、心をつくることで心のありようを理解したいという、いわゆる構成論的アプローチです。知能研究という意味では、便利なツールをつくるというより、理解したいという欲求の方が大きいかもしれません。

記号はどこから現れるのか

記号接地問題に抱かれている違和感についてお話しください。

谷口 ハーナッドが「記号接地問題」を提案した時代背景を考える必要があります。「記号」接地というのは、まず「記号」ありきの話です。ここでいう「記号」は人間が日常で使う言語や記号ではなく、記号的AIにおける「記号」です。この点も重要ですが、いずれにせよ、社会において絶え間ない意味変化にさらされ、形成されていく記号や言語がどこから立ち現れるのかについては問題にしていません。「記号」のシステムが与えられた状態を前提に考えているわけです。

ソシュールの記号論では、言語が世界を恣意的に分節するとされています。

谷口 ソシュールの記号学では構造を捉えようとするので、言語システムを共時的に、時間を止めて観察しますね。作られた記号システムを見る。たとえば「青」「赤」という言葉――シニフィアンを考えると、「青」と「赤」というのはその記号体系において、指示対象――シニフィエを同時に分節化し、差異化することになる。こういう知覚的な表現対象だとわかりやすいかもしれませんが、それは抽象的な対象にも向けられる。例えば政治の世界などで「保守とはなにか」を考えると、なかなか難しいけれど、記号体系はそれをなんとかリベラルなど他の言葉との違いで捉えようとする。ただ「自民党は保守政党である」などと言いながら、自民党の動き自体が変化していくと、それに伴って「保守」という言葉の意味もみんなにとって流動的にゆらいでくる。

言葉の意味というものが、通時的に変化するということになります。

谷口 それを捉えたいのが記号創発システム論ですね。記号が創発する瞬間に興味があるというよりも、創発システムとして見做すべき記号が成立する世界を捉えて、その動態を理解したい。記号接地問題でいわれる「記号」について遡ると、記号論理学の意味での記号に繋がっていきます。これは記号的AIを介して人工知能や認知科学につながる。その思考の枠組みを受けついでいるわけです。人間にとっての意味作用のような、記号システムの動態や、パースの記号論的側面はメインの焦点ではありません。

分析哲学的な思潮が、その扱いやすさゆえにアルゴリズムに転化されているわけですね。

谷口 そういう言いかたもできるのかもしれません。記号や言語活動を支えているものはなにかという視点が捨象されてしまいます。現代の生物観にとってはあたりまえの進化論的に考えればに即して考えれば、ボトムアップに形成されていくと考えるのが当然なのに、何故か知能観に関しては、どうもそうなりきっていないようなのが不思議でした。

たかだか30万年人類史のなかで言語が現れたということも無理がありそうです。チョムスキーは、人間の脳にはLAD(Language Acquisition Device:言語習得装置)が生得的に備わっていて、刺激を受けることで普遍文法が母語の文法に変化すると論じています。

谷口 僕はチョムスキーを支持しているわけではありませんが、緩い意味での普遍文法的なものがあるという主張に大きく反対するほどではありません。計算論的に考えると、そのような構造が出てくるダイナミクスはありえるでしょう。しかしそれは、統語論的な計算処理のなかでの話しであるので、それが僕の興味のある記号システムや言語の本質かというとちょっと違う。

どういうことに興味があったのでしょう。

谷口 人類そのものの本質を考えると、言語と同じく、貨幣経済や死の概念、それに宗教などもヒトという種だけがつくったものです。古代人類の持つ記号には壁画などがあり、宗教的なものもあって、国家をつくっています。いまの技術や言語はそのうえに成立していますから、人類がそれらのものをつくってきたかということが、人類の特異性へのシフトなのだと思います。壁画や言語、貨幣も記号ですし、宗教についても――宗教学的には上から伝えられたものだとされていますが――僕は人類が発明したものだと思っています。そう考えると、それらにつながるのは記号システムをつくって共有する、そしてそれに支配されるという構造だと考えられます。

概念形成ということでしょうか。

谷口 その表現だと、ちょっと矮小化しますね。概念形成は個人単位のものとして、先に述べたシステムの前提になります。重要なのは記号システムが個人に還元されない社会のなかで形成されるということです。社会構成主義の議論でも、僕たちは言語システムに従う存在であるとされています。たとえばこの取材でも、僕は大学教授としての受け答えをしていますが、違う場でお話をすれば、もっとフランクに話すかもしれません。僕もいまお話ししながら大学教授としてふるまっているわけです。そうした役割が、社会制度としてできあがっているわけですね。ですから、人間の記号をつくりだす能力や、それを社会のなかで引き受けてつくるのみならず、そこに従ってしまう能力というのも重要になってきます。

社会学心理的にいうとジョージ・ハーバート・ミードの役割取得理論のようなところですね。

谷口 そうですね。京都大学の椹木研は機械系でありつつも、蔵書の半分以上は縦書きだったりする研究室でした。そういう環境の中で、記号と人間について「境界」を気にせずに考えていましたから、ミードなんかも読みましたね。当時はそうしたことも色々と考えたり読んだりしていました。既存の枠組では話を閉じることができないので、さまざまな方面から研究アプローチをさぐる一方で、当時まだ元気だった現代思想に対しては違和感も覚えました。ずっと言葉を捏ねつづけているだけのようにも思えましたし、哲学の言葉がうまく接地しない印象がありました。それが構成論的アプローチへのモチベーションになりました。

当時の京都大学には浅田彰さんがいらしたころですね。

谷口 僕自身は、学部時代からしっかりと学ぶ学究的な学生ではなかったですね。浅田先生の講義は一般教養で登録していた記憶がありますが、当時はよくわからずに授業に出ていなかった気がします。もったいないことです。

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