東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授 清水知子氏に聞く
第5回 世界認識のアップデートとセルフケア

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聞き手 都築正明
IT批評編集部

第5回では、ケアや共同性を軸に、分散型組織DisCOや非人間を含む関係性のなかでの自己のありようについて話を聞いた。ジャン=リュック・ナンシーやジュディス・バトラーの思想、オードリー・タンとg0vの事例を参照しつつ、従来の市場価値労働に加えケアワークやラブワークを中心に据えた社会を構想するとともに、多様性に開かれたイントラアクション的な存在論を考察する。清水知子氏の拓く表象文化論の最前線を聞くインタビュー最終回。

清水知子 氏

清水 知子(しみず ともこ)

東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。専門は文化理論、メディア文化論。英国バーミンガム大学大学院MA(社会学・カルチュラル・スタディーズ)、筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科修了。博士(文学)。山梨大学助教授、筑波大学人文社会系准教授を経て現職。米国ハーバード大学ライシャワー日本研究所客員研究員(フルブライト研究員2010−2011)、独ベルリン自由大学客員研究員(2018-2019)。著書に『文化と暴力――揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物――王国の魔法をとく』(筑摩選書)、訳書『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社)のほか、ジュディス・バトラー『アセンブリ――行為遂行性・複数性・政治』(青土社)、『非暴力の力』(青土社)、『自分自身を説明すること』(月曜社)、『権力の心的な生―主体化=服従化に関する諸理論』(月曜社)、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『叛逆―マルチチュードの民主主義宣言』(NHKブックス)、ディヴィッド・ライアン『9・11以後の監視:〈監視社会〉と〈自由〉』(明石書店)、ノーム・チョムスキー『知識人の責任』(青弓社)など共訳多数。

目次

関係性そのものを支えることに価値を置く

都築正明(IT批評編集部、以下――)ジャン=リュック・ナンシー1の言葉「共同的なものはすべて露出されている」のように、自他の可傷性を認めて相互依存的に生きることは、先生がおっしゃったケアの関係と似ているように思います。必ずしもDAOのようなスマートコントラクトに依存しないDisCO(Distributed Cooperative Organization:分散型協同組織)のような関係性を構想できないでしょうか。

清水知子氏(以下、清水)ゲリラ・トランスレーションのような文化的ハブからは年月も経過し、テクノロジーも進化していますから、いまはDAOに限らずさまざまな新しい協働形態が模索されているようです。実際DAOについては少し下火になっているようで、ある人に尋ねたところ支援者が以前より減ってしまったのが大きいそうです。つまり、スマートコントラクトが万能に機能するわけではなく、そこには持続的な関わりやケアの労力が欠かせない。ここからどうなるのかは未確定ですし、私も興味があるところです。

「DisCO マニフェスト」を読むと、生活の糧を得るための市場価値労働のほかに、オープンソースへの貢献や翻訳の無償公開など共有資源に資するコモンズ価値労働、そしてこれまでパターナルに行われていた教育などのラブワークやアンペイドワークとして行われていた家庭内労働や感情的支援などのケアワークについても価値評価することが明記されています。先ほどジャン=リュック・ナンシーの名前を挙げましたが、テクノロジーの力を借りれば彼のいう「無為の共同体」のようなものができそうな気もします。

清水 フェミニズム的な思想やケアの視点を取り込んでいる点がとても興味深いですね。従来は「経済的価値」を生み出さないとして軽視されてきたケアワークやラブワークを、社会を支える不可欠な労働として評価するという点がポイントだと思います。つまり、誰かが英雄的に導くのではなく、互いの可傷性や限界を前提に、関係性そのものを支えることに価値を置く共同性です。同時に、社会運動のあり方もこれに近づいているように思います。台湾ではひまわり運動以降、オードリー・タンらg0vコミュニティが技術を介して分散的に政治参加の場をつくり、BLM(Black Lives Matter)運動もまたインターセクショナリティを基盤に、カリスマ的な指導者に依存しない分散型のリーダーシップを発揮しました。そこには相互扶助からなるアナキズム的な実践が見出せます。つまり、テクノロジーを媒介にしながら、ケアと相互依存を基盤にした分散的な共同性が、政治やアートの領域の両方で現れつつあるのではないでしょうか。

テクノロジーが介在することで、関係性を誘導したり監視したりというリスクもありますが。

清水 そうですね。テクノロジーは関係性をつなぐ道具であると同時に、関係性を監視したり制御したりする装置にもなりえます。実際にZOOMやDeepLは使わないというポリシーを持っている人もいますし、監視を避けるためにパソコンのカメラにシールを貼っている方もいます。そうした実践からは、テクノロジーを単なる便利なツールとして受け入れるのではなく、自分たちの身体や生活をどのように守りながら関わっていくかを考える必要があることがよく分かります。

複数性に開かれることと関係性のなかの自己涵養

先生は『文化と暴力』のころから、ケアと記憶の制度化に言及されています。ケアというのは他者の記憶のなかで生きるものだとおっしゃっていますよね。

清水 そうですね。これはジュディス・バトラーの思想とも深くつながっています。そもそも私たちははじめから成人した個人として誕生するわけではありませんし、ロビンソン・クルーソーのように自立して1人で生きるわけでもありません。他者との関係や記憶の網の目のなかに投げ込まれるようにして存在します。つまり、私たちはつねに不安定な存在であり、そのなかで互いに無理のないかたちでケアを分かち合うジュ部を身につけることが重要になります。そう考えると、ケアは単なる行為や感情ではなく、過去の記憶や歴史に媒介された制度的な営みとして現れてきます。サラ・アーメッド2が“killjoy(水を差す)” という言葉で指摘したように、制度的・規範的な抑圧をかき乱し、別の可能性を拓く実践もケアの一形態といえるのではないでしょうか。ただ近年「ケア」という言葉が安易に流通している面もあるので、私自身は安直に用いることには慎重でありたいと思っています。

関係性のなかから有意味なものを再構成するわけですね。しかし学校教育からビジネスまで、主体性という言葉が曖昧かつ広範に喧伝されているなかで、関係性と主体性の優先順位をつけることには混乱も生じそうです。

清水 主体や客体はもともと独立して存在するのではなく、関係性のなかで生成されるものだと考えたほうが理解しやすいと思います。カレン・バラッド3が提唱する「イントラアクション(Intra-action:内部作用)」という概念はその点で示唆的です。従来の「インタラクション(interaction:相互作用)」はすでに自立した主体どうしの相互作用を前提としていますが、「イントラアクション」では、それぞれが関係性のもつれのなかから生み出されてくる考えます。関係性と主体性のどちらを優先するかではなく、関係性が先にあり、そこから主体性が立ち上がってくるという順序の転換がポイントなのだと思います。そしてこのときの関係性には、人間どうしだけでなく、非人間的な存在の感覚も含まれてきます。そうでなければ、気候変動や環境問題、そして資源の使い尽くしといった問題をただ繰り返すことになってしまうでしょう。むしろ共創的な関係をどう築くかが、これからの課題だと思います。

先生のご研究には、アートだけでなく動物や都市、AIなど非人間にかかわるものも多いですね。

清水 はい、人間ではないものの知性にとても興味があります。自分を拠り所にした主体性を解体しつつ、動物や都市、AIといった他者から感性を学び、互いに変容するなかで社会の語り方を再構築したいと考えています。その営みは言語だけでなく、アートや映像、インスタレーションなど、身体や感覚に直接働きかけるメディアを通じてこそ、非人間的な知性との出会いが深まるのだと思います。さらに重要なのは「語る」だけでなく「聴く」ことです。人間の言葉に耳を傾けるのはもちろんですが、植物や無生物が発する兆候や環境のノイズに対する感受性を鍛えることも、他者との関係性を再編するうえで不可欠だと考えています。大きな話にはなりますが、現在は、こうした実践を通じた、ノンヒューマンを含む惑星的なスケールの生命論――感性の技法としての美学――を構築することから哲学や知を練りなおすことに興味があります。

そうした場合の自己のありようはドゥルーズ & ガタリのいう」dividual(分人)」として存在するとお考えでしょうか、それとも多様性に開かれた自己として存在するのでしょうか。

清水 現代社会においては、」dividual」は人間をデータ化して分割・管理する装置に取り込まれてしまうリスクをはらんでいると感じます。アルゴリズムや監視技術のもとで私たちが「分人」として処理されていくあり方は、自己の豊かさを削ぎ落としてしまう危険性があります。その意味で、私自身は「dividual」としてのあり方よりも、むしろ多様性に開かれ、関係性のなかで絶えず変容していける自己でありたいと考えています。自己を固定するのではなく、環境や他者に触発されながら変わっていける存在であり続けたいと思うのです。

たとえば後期のフーコーのいう「自己への配慮(倫理的修養)」にも近いでしょうか。

清水 フーコーの「自己への配慮」と響き合うところもありますが、私が近いと感じているのはむしろボリス・グロイス4が『ケアの哲学』で論じるセルフケアです。私たちは生身の物理的な身体だけでなく、データによって形成された象徴的な身体をも生きています。ケアを考える際には、この二つの身体の双方を見据える必要があります。国家が制度として提供する生政治的ケアに完全に依拠するのではなく、他者との関係性のなかでいかにセルフケアや自己への配慮を実践していくかが、いま重要な課題だと思います。<了>

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