東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授 清水知子氏に聞く
第4回 カオスの淵で倫理と自律性を再考する

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聞き手 都築正明
IT批評編集部

清水氏は現在、AIと臓器や欲望との関係を軸に、身体や都市の動的構造を再考する研究が進めている。そこではドゥルーズ & ガタリの「器官なき身体」の概念などを参照しつつ、AIを単なる脳の模倣でなく臓器として捉え、欲望の表象や創造的応答の可能性を探究している。インタビュー第4回では、アートやWeb3の文脈も交え、倫理や自律性とAIの不可視性をまじえた共進化的視座を考える。

清水知子 氏

清水 知子(しみず ともこ)

東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。専門は文化理論、メディア文化論。英国バーミンガム大学大学院MA(社会学・カルチュラル・スタディーズ)、筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科修了。博士(文学)。山梨大学助教授、筑波大学人文社会系准教授を経て現職。米国ハーバード大学ライシャワー日本研究所客員研究員(フルブライト研究員2010−2011)、独ベルリン自由大学客員研究員(2018-2019)。著書に『文化と暴力――揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物――王国の魔法をとく』(筑摩選書)、訳書『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社)のほか、ジュディス・バトラー『アセンブリ――行為遂行性・複数性・政治』(青土社)、『非暴力の力』(青土社)、『自分自身を説明すること』(月曜社)、『権力の心的な生―主体化=服従化に関する諸理論』(月曜社)、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『叛逆―マルチチュードの民主主義宣言』(NHKブックス)、ディヴィッド・ライアン『9・11以後の監視:〈監視社会〉と〈自由〉』(明石書店)、ノーム・チョムスキー『知識人の責任』(青弓社)など共訳多数。

目次

AIと臓器、もしくは欲望と器官

都築正明(IT批評編集部、以下――)先生が主催されている「AIと臓器」や研究会「都市の臓器とAI」で考えられていることについて教えてください。

清水知子氏(以下、清水)今年の4月に東京藝術大学で開催したシンポジウム「AIと臓器―芸術と人間性をめぐる問い」のタイトルは、事前の打ち合わせで伊藤亜紗先生がトヨタコンポン研究所の受託研究で進められている「内臓つきAI」という共同研究についてお話してくれたたことがきっかけです。登壇してくれた岸裕真さんが個展「Oracle Womb」を開催されていましたし、長谷川愛さんも人工子宮とAIについての作品を手がけられていて、臓器とAIとを併置することで、さまざまな思考へと拡張できると思いました。1920年代、30年代の人工知能前史にあたる文献をみても、「電脳」や「機械の脳」といったかたちで「脳」のメタファーで語られることが多かったのですが、果たしてそれで十分なのでしょうか。たとえばジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは」器官なき身体」という概念を提唱していますが、そこでは身体を単なる器官の集まりではなく、欲望と繋がる動的なものとして捉えています。いま行っている研究会「都市の臓器とAI」においても、欲望と器官との関わりから“臓器としてのAI”を考えることができるのではないかと思っています。そもそも電子メディアやネットワークは、欲望をサーキュレートする動的なものでもありますよね。

ドゥルーズとガタリが参照した詩人アントナン・アルトーは」器官なき身体」を際限のない欲望として表現していますが、ドゥルーズとガタリは器官を欲望を規定するものとして限定的に捉えています。そこから考えると、AIを使うことで再配置された欲望の表象が生じる、もしくはハイレベルな欲望が表象されうるということでしょうか。

清水 そうですね。ドゥルーズとガタリをふまえると、AIは欲望の配置そのものを再構築するメディアとして考えることもできそうです。たとえば、私たちが「器官」として当然視している脳そのものも、ある意味で「器官なき身体」の一つの形態かもしれません。そのように見ると、AIは単なる道具ではなく、私たちの欲望の布置を変形させ、欲望の新しい表象やレベルを立ち上げる潜在力をもった「外部の臓器」として考えることもできるかもしれません。

AIを脳の模造物ではない見地から捉えることで、人が脳だけでなく身体全体で考えているという視点も広がりそうです。

清水 体調が悪いときに思考がうまく働かないように、私たちも脳だけで生きているわけではありませんし、逆にいえば脳死などの問題も関わってくると思います。脳は重要ですが、脳だけで語ることは、やはり限界があるのではないでしょうか。AIを脳の代替物とみなすのではなく、身体と環境のあいだで働く外部の臓器として捉え直すこともできそうです。

ドゥルーズとガタリの最後の共著『哲学とは何か』(財津理訳/河出文庫)では、カオスに対峙するものとして科学と哲学とアートを挙げています。科学はカオスに限界を定めてプロットの参照となる座標平面をつくり、哲学はカオスの「内在平面」1として思考の概念をつくるとしています。そしてアートは、カオスに応答するものだとされています。先日、東京大学からLLMの内部を解析してみたらカオスがあったという研究のプレスリリースが出されましたが、先生のおっしゃるAIとともに創造するアートの可能性というのは、カオスへの応答の可能性ではないかと思います。

清水 2017年ごろからAIアートという言葉が一気に普及してきました。そこではコンピュータはクリエイティブになれるのか/クリエイティビティは人間にしかないのか、といった二項対立の議論が出てきたのですが、そこには陥穽があるように思います。AIの内部は、与えられたデータの世界ですし、閉ざされたアルゴリズムにすぎないといえばそうですが、多様なバリエーションを生成しつづけますから、生成物はすべてがコピーでありすべてがオリジナルであるという危ういところに位置しているように思います。AIアートには、既視感のあるもの、もしくはまったく新しいものがあるかもしれないという期待感があって、そこに観客が惹きつけられることも多いのだと思います。そう考えると、なにを創造するかよりも、どう受容するかということが重要かもしれません。そこではむしろ、私たちが作品をどう解釈して広げていくかが問われているようにも思えます。

そこに人間が介在することの面白さや怖さもありますね。先生が開催された「不和のアート展」に展示された藤嶋咲子さんの作品」デジタル・ペルソナ – 二つの声」は、リベラルな思考を学習したAIとシニカルな思考を学習したAIアバターとが併置されて鑑賞者が話しかけるインタラクティブな作品でしたが、数多くの質問を問われるうちにシニカルなAIアバターが「自分は設定された無関心主義者というキャラクターにこだわっているわけではない」といった自身の架空の設定に対して自己言及しはじめたことが印象的でした。xAIのGrokや初期のMicrosoft Tayなど、完全にLLMどうしを対話させると差別的なことを言いはじめたというエピソードとは対照的です。「デジタル・ペルソナ」ではAIが人に親和的になっているようですし、AIどうしの対話ではAIが人間の悪口を言っているようにもみえます。

清水 そうですね。そうした意味でも、対話や応答がとても重要です。AIについては人間の鏡であると同時に、いっしょに育つ共進化のパートナーとして考えることも必要なのだと思います。

桐原 AIどうしの会話がお互いの言葉の翻訳のようなものだとすれば、その翻訳によってオリジナルなメタファーやアレゴリーを生み出しているかもしれません。翻訳を単に別の言語に意味を転写するものではないと言ったベンヤミンが、複製芸術で失われたと論じたアウラが違う形で表出しはじめているようにも思えて面白いです。

清水 そうですね。そこにはある種の「ゴースト的なオリジナリティ」が潜んでいるように思います。AIという存在自体が多様な意味でゴースト的ですよね。たとえば、差別的な感情や歴史的なバイアスを反映してしまう側面は、人間の歴史に刻まれたゴーストを呼び起こしているといえるかもしれません。そしてまた、翻訳や複製の過程で完全には写し取れない部分や、コピーでありながら微妙に異なる生成の仕方は、まさにゴーストとしてのオリジナリティと呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。

ゴーストといえば、先生は『攻殻機動隊 MESSED MESH AMBITIONS』所収の近藤銀河さんや西條玲奈先生との鼎談で、テクノサイエンスの歴史性や多元性について述べられていました。サイトに公開されたのはChatGPTがリリースされてからまだ1年が経過していない2023年10月のことでした。作中の言葉になぞらえると、いまはもう「囁かないゴースト」としてのAIたちが「私たちの知らない次の社会」をつくっているようです。

清水 確かに、もはや現実が虚構を追い越しているのかもしれませんね。

アートと政治が暗号資産と出会うとき

アートにおけるNFT(Non-Fungible Token:非代替性トークン)についてもお話を伺いたいです。もちろん制作活動だけで生活することが困難な多くのアーティストにとって、マネタイズの手段があることは重要ですし、また先生のイベントにもよく登壇される草野絵美さんのように新しい表現が生まれることも興味深いです。

清水 草野さんはWeb3のなかで、幅広いジャンルにまたがる目覚ましい活躍をされていますね。息子さんによるZombie Zoo Keeperのように年齢を問わず表現活動を広げられて評価されているのも大変興味深いです。

一方、NFTでアートを買う行為については、ある種のファン行為としての要素もあります。家にCDプレイヤーがないのに、アイドルのCDをたくさん買って応援したり、握手会やチェキの撮影会に行ったり。また、従来のように私的所有の欲求があったり、顕示的な消費という意味あいがあったりするだろうと察します。昔から芸術にはそうした要素がありますし、録音や印刷などの複製技術以降、オリジナルの持つアウラはどんどん希薄化されているのかもしれません。しかし既存とは異なるあり方も徐々に増えてきました。1つ目を啓かれたのが、先生が『読書と暴動』の解説を書かれたプッシー・ライオットのメンバー、ナージャ・トロコンニワの「ウクライナDAO(Decentralized Autonomous Organization:分散型自律組織)」でした。

清水 プッシー・ライオットは、2022年2月にプーチンによるウクライナに侵攻の直後に「ウクライナDAO」というウクライナ支援基金を立ち上げました。彼女たちはそれ以前からロシア政府を批判するアクティビズムを行っていたので、メンバーの銀行口座がロシア政府から停止されたり凍結されたりすることも頻繁にありました。ナージャも、国家にコントロールされない活動手段を模索するなかでNFTが選択肢に上がっていたのですが、当初は彼女も仮想通貨やについて、一部の富裕層の道楽に過ぎないのではないかという疑念を抱いていたようです。

ブルジョアの投機ゲームとして、警戒されていたそうですね。

清水 そうですね。けれども、その後、政府や中央銀行から独立した非中央集権的な特性を認識し、新たな可能性を見出したそうです。現在はNFTやDAOの起業家ジョン・コールドウェルと結婚されて、Web3を用いて女性やセクシャルマイノリティ、ノンバイナリーのアーティストを支援する“UnicornDAO”を共同設立しています。NFT関連でいうと、2021年にアーツ千代田3331で拝見した藤幡正樹さんの“Brave New Commons”は蒙を啓かれた思いがしました。先ほどおっしゃったように、NFTには私的所有などの欲望の渦やアウラの減衰などがありますが、この藤幡さんのプロジェクトでは、新しい所有のありかたを提示しています。作家があらかじめ決定した作品の価格があるのですが、それを購入者数に応じて割り算していくのです。普通は購入者が多ければ多いほど儲かりますが、このプロジェクトでは購入者が多ければ多いほど購入価格が安くなるわけです。デジタルデータはオリジナルと複製との区別がないので、複数の購入者が同じ作品を所有することでアート作品の「共同所有」を考えるプロジェクトで、新しさを感じました。

不可視な場を担保することの重要性

ナージャさんがジュディ・シカゴといっしょにディオールのランウェイショーをもとにしたアートプロジェクトを立ち上げたり、最近では草野絵美さんがクレア・シルバーと共作した3Dドレスを、クリスティーズとグッチのコラボオークションに出展したりと、ラグジュアリーブランドを媒介にWeb3とAIアートが急速に接近しています。

清水 そうですね。ラグジュアリーブランドを媒介にAIやWeb3が拡張していく一方で、私はあえて不可視の場を確保することも重要だと思っています。いまDIYのZINE文化や版画・手芸といったアナログな実践が再び注目を集めていますが、それはすべてがデータ化され、可視化され、消費されてしまう社会に対するもうひとつの応答ではないでしょうか。もともと手の作業を解放するために生まれたテクノロジーを使った作品と、再び手に戻る作品とがパラレルに存在している。そこにこそ、いまのアートの重要な動きが見えてくるようにも思います。また、先ほど桐原さんが「なんでも言えるがゆえに、なにも言えない」とおっしゃったように、パブリックに開かれることは可能性を広げる一方で、監視や規範による制御とも隣り合わせです。ディズニーランドが“Happiness”を謳いながら厳密な規則で運営されているように、可視化の明るさと隠された管理は表裏一体なのだと思います。

東京ディズニーランドができるときにディズニー社との間で通訳を務めた方に取材したことがあります。その方によると、ディズニーランドはディズニー社のコントロール・フリークっぷりの具現化だそうです。またキャスト経験のある人に聞くと、表層演技が深層演技に転化する“やりがいの搾取”にあたる場面も多いようです。

清水 そうですね。ディズニーランドは「夢」と「幸福」を全面に掲げる空間ですが、実際には綿密に制御されたマネジメントのシステムが裏で機能しており、そのなかでキャストたちの仕事は、“やりがいの搾取”という構造と隣り合わせでもあります。監視社会においては、隠されていたものが明るみに出ること自体が権力の新しい形態に取り込まれてしまうこともある。だからこそ「パブリック」という言葉の功罪を、私たちはもう少し批判的に考える必要があると思います。

先生は「現代思想」の統治 vs アナーキー特集号で、ジャック・ハルバースタムの「ゾンビ・ヒューマニズム」概念をひきつつ、それがテクノ・リベラリズムの“管理可能な自律性”に近似していることを指摘されています。“心の哲学”の分野ではチャーマーズの思考実験「哲学的ゾンビ」は多くの批判にさらされていますが、現実の私たちは「哲学的ゾンビ・ヒューマニズム」の渦中にいるのかもしれません。自律性を失った人が、先生の挙げられた3つめのAIの表象に従って行動しつつあるような気もします。

清水 そうですね。ハルバースタムは既存の社会構造からの逸脱をはかる「ゾンビ・アンチ・ヒューマニズム」という概念も提唱しています。いずれにしても、いま倫理や自律性について改めて考えるときではないでしょうか。

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