東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授 清水知子氏に聞く
第3回 テクノクラシーが招来するゾンビ・ヒューマニズムへの危惧
AIは単なるツールや人間の鏡ではなく、脱人間化された知性として世界を表象する可能性を持つ。アートは、AIが提示する複数の表象レイヤーや、人間/非人間間の翻訳のあり方を探求する場として機能する。AIどうしのコミュニケーションや生命論的視点を通じて、私たちは知の可能性を再考し、ポスト・ヒューマニティの新たな視座を開くことができるだろうか。
清水 知子(しみず ともこ)
東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。専門は文化理論、メディア文化論。英国バーミンガム大学大学院MA(社会学・カルチュラル・スタディーズ)、筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科修了。博士(文学)。山梨大学助教授、筑波大学人文社会系准教授を経て現職。米国ハーバード大学ライシャワー日本研究所客員研究員(フルブライト研究員2010−2011)、独ベルリン自由大学客員研究員(2018-2019)。著書に『文化と暴力――揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物――王国の魔法をとく』(筑摩選書)、訳書『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社)のほか、ジュディス・バトラー『アセンブリ――行為遂行性・複数性・政治』(青土社)、『非暴力の力』(青土社)、『自分自身を説明すること』(月曜社)、『権力の心的な生―主体化=服従化に関する諸理論』(月曜社)、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『叛逆―マルチチュードの民主主義宣言』(NHKブックス)、ディヴィッド・ライアン『9・11以後の監視:〈監視社会〉と〈自由〉』(明石書店)、ノーム・チョムスキー『知識人の責任』(青弓社)など共訳多数。
目次
AIはなにを表象するのか
都築 正明(IT批評編集部、以下――)アートにおいてAIが果たす役割についてのお考えをお聞かせください。
清水知子氏(以下、清水)既存のテクノロジーが当初目指していた目的の枠内で語るのではなく、アートは別の視点からそれを読み替え、予期されていなかった可能性を顕在化させる力を持っていると思います。芸術実践においてAIを考えるときに、これまでテクノロジーがどのように芸術の形式や内容を決めてきたかという延長線上で考えるよりも、テクノロジーを再び捉えなおす可能性という観点からみたほうがよいのではないでしょうか。人工知能は人工であるがゆえに変化していきます。それゆえ単に既存の規範に従わせるだけでなく、規範から逸脱しうる余地と可能性を常に持っています。知能を固定的に定義してしまうことは、知能の可能性そのものを制限してしまうことになります。ユヴァル・ノア・ハラリが繰り返すように、「意識(consciousness)と知能(intelligence)を分けて考える視点は示唆的で、意識をもたないAIが知能だけで人間社会を操作したり支配したりすることがハラリの一貫した憂慮ですよね。こうした文脈でAIを見直すとき、これまでの人間中心の知のありかたや知性というものが、いかに限定的なものだったかということがわかります。AIは単なる「人間の鏡」や「人間の代替」ではなく、私たちの知性や知のあり方の限定性を照らし出す装置としても機能します。AIを脱人間化した知性として捉えることで、人間の鏡や人間の代替といったこれまでのAI観とは異なる付き合い方が開けるのではないでしょうか。
そうした可能性が開かれると、AIがなにを表象しているのかの透視図がみえてきそうです。
清水 そうですね。AIの表象には3つのレイヤーがあると考えています。1つめは、これまで小説や映画、漫画やアニメなどフィクションに描かれ、社会がAIに抱いてきた“表象されるAI”です。そこには人間の欲望や偏見、恐怖や期待といったものが投影され、AIは社会的想像力の鏡として機能してきました。第二のレイヤーは、アルゴリズムやAIそのものが、膨大なデータを高速に分類・生成することで世界を再構成し、新たな意味を生み出すAIです。これは表象というより、データ処理や生成のプロセスがそれ自体でパフォーマティブな行為になっていると思います。さらに第三のレイヤーは、トレヴァー・パグレン1というアーティストが「インビジブル・イメージ」と呼ぶような、人間には知覚されない機械同士のコミュニケーションのレイヤーです。ある監視カメラのデータを、別のアルゴリズムによって読み取ら、さらに別のシステムがそれに応答して処理するように、その不可視の界面で私たちは知らず知らず統治や管理の作用を受けています。AIと表象について考えるときには、これら三つの層が互いに重なり合い、相互作用していることを見落としてはならないと思います。アーティストたちは、それぞれのレイヤーに異なる仕方で介入し、新しい視点を開こうとしているのではないでしょうか。
3つめのレイヤーにおいては、私たちが直感できるような3次元もしくは時間を加えた4次元では及ばない多次元でものを考えていて、人はそれを大幅に微分化することでしか理解できないのでしょうか。
清水 そうですね。第三のレイヤーは、機械同士が高次元でやりとりする世界です。私たちの直感的な三次元・四次元の思考ではじかに把握することはできず、機械の表現を投影・縮約して初めて理解が可能になります。重要なのは、機械が私たちを見る視点をどう民主化し、可視化するかという点だと思います。芸術は、その不可視性を暴き出し、判断の根拠を社会的に検証するための有効な介入にな得るのではないでしょうか。つまり、数値化された現実を機械が意味づけし、そのまま社会制度や意思決定に介入していくイメージです。そう考えると、AIはもはや人間“が”世界を見るための道具ではなく、人間“を”見る存在へと移行しつつある。私たち自身が見る主体ではなく、データとして見られる客体へと位置づけられてしまうような新しい表象が現れているとも考えられます。
AIが行うのはコピーか、もしくは翻訳か
AIがデータをコピーしているのか、それともブルーノ・ラトゥール2がANT(Actor Network Theory:アクターネットワーク理論)でいうようなズレを生じさせる翻訳を行っているのかについても考えをお聞かせください。
清水 ズレを生じさせる翻訳という見地は、特にアートの観点からすると面白いですね。翻訳は単なる意味の移し替えではなく、必ずどこかにズレを生じさせる行為です。その視点からAIをみると、翻訳についても、いくつかのレイヤーがあると考えられます。1つめはChatGPTやDeepLのような言語モデルのように意味を再生成するような翻訳です。AIは統計的空間で確率的に近似を生成し、必ずしも意味理解を前提とせずに言語を再編成する表象エンジンとして機能しているように思います。2つめの翻訳は、ある表象体系から別の表象体系に移行させる、ジャンルを越境するものです。政治やメディアといった、異なる文化を横断することで社会の枠組を越境する可能性を担う機能です。3つめとして、存在論的な翻訳があると考えられます。これは、人間の言語や人間の文化だけでなく、人間/非人間つまりヒューマン(human)/ノンヒューマン(non-human)間の翻訳です。たとえば気候変動センサーデータのように、ノンヒューマンな世界を人間に可視化もしくは可聴化するような翻訳です。トルコのアーティスト、レフィク・アナドルは、Large Nature Model (LNM)という自然に特化した生成AIモデルをつくり、衛星写真から生物の3Dスキャンまでの大小の画像データや音声データ、センサーデータを可視化するプロジェクトを行っています。そうした意味でいうとAIによる翻訳には、言語だけでなく文化間や人間/非人間の関係などを築きなおすメディエーターとしての役割です。そうはいっても、ただし、その背後でAIが膨大な電力や冷却水を消費していることは忘れてはならないように思います。
桐原永叔(IT批評編集長、以下桐原)AIテクノロジーの進化に電力の問題は切り離せません。電力問題についてはワットビット構想のような分散型が提唱されつつ、発電もデータセンターも、インフラは中央集権的です。ビジネス系の有識者はITが結局は旧来の中央集権を逃れられないとどこかで確信しながら、多元性を重要視するオードリー・タンのデジタル民主主義にシンパシーを表明したりします。
清水 それは、ジャック・ハルバースタム*2が論じた」ゾンビ・ヒューマニズム」の構造を想起させますね。動物や他者を植民地的な状況や非人間的な状況に置いてゾンビ化し、人間が自らの慈愛、感受性、共感能力といった資質を正当化するために他のあらゆる存在形態を自身に対置するかたちでヒューマニズムを立ち上げる図式です。国内の事例に引き寄せれば、地方創生を謳いながら実際には東京に住み、地方の資源やインフラを消費している状況も、構図としてはそれに通じるところがあるのではないでしょうか。
桐原 いくらAIソフトウェアをつくっても、オープン化されなければ見向きもされず、オープン化すればすぐにコモディティになってしまうので利益にはならず、結局は儲かるのはインフラ部分にばかりという構図ができあがっているようです。この中央集権化はなかなか揺るがないように思います。
ゾンビ・ヒューマニズムの図式については、低賃金の女性ゴーストワーカーがデータ・ラベリングやモデレーションに携わっていることにもジレンマがあります。ビッグ・テックが搾取労働を指摘されても、2次・3次……とアウトソーシングすることで不可視化されてしまう。AIが社会や文化間を中立的に媒介しているように見えつつも、そこに人間の矛盾が現出してくるという。
清水 さきほども少しお話にでてきましたが、ハイデガーが指摘したようなヨーロッパに特有の技術観ではなく、ユク・ホイがのいう技術的多様性や宇宙技芸の視座が重要だと思います。また、そこでは、人間の言語や知性を基準にするのではなく、人間以外の生命的なもの、さらには生命ならざるものにまで技術を開いていく可能性があるように思います。その意味で、AIを生命論的な情報学として捉える試みは大きな意味を持つのではないでしょうか。またトーマス・トウェイツの実践は示唆的です。『ゼロからトースターを作ってみた結果』(村井理子訳/新潮文庫)や『人間をお休みしてヤギになってみた結果』(村井理子訳/新潮文庫)といった作品で知られる彼は、現在“誰も傷つけない車”を構想しており、柳の枝で車体を織り、タンポポで低圧タイヤをつくるといった発想に挑戦しています。四足歩行器や人工消化器をつかってヤギになってみたり、原料を採掘するところからトースターをつくってみたりという彼の試みには、搾取や不可視化されたゴーストワークが介在する余地はありません。AIも、単なる最適解を求める装置としてではなく、環境や状況のなかで作動や判断が変わる生命論的な装置として考えると、新しい知の刷新が可能になるのではないでしょうか。AIとともにアートをつくることには、AIが人間とは異なる方法で感じたり表現したりすることで、世界と出会いなおすヒントを得る可能性があるのだと思います。こうした実験的な実践は、アートだからこそ可能であり、同時に人間中心主義を問い直す批判的ポスト・ヒューマニズムを考えるうえでも重要だと思います。
清水 知子 (著)
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清水 知子, 野々村 文宏, 浅見 克彦 (翻訳)
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