東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授 清水知子氏に聞く
第1回 世紀の狭間で問われたことと遺されたもの

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聞き手 都築正明
IT批評編集部

文化理論・メディア文化論を専門とする清水知子氏は、アートとテクノロジー、動物、ジェンダーを軸に現代社会の構造を探りつづけている。インタビュー第1回では、氏の学究の背景にある冷戦後から9・11、生成AIの普及までの時代背景と研究の経緯について聞いた。

清水知子 氏

清水 知子(しみず ともこ)

東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。専門は文化理論、メディア文化論。英国バーミンガム大学大学院MA(社会学・カルチュラル・スタディーズ)、筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科修了。博士(文学)。山梨大学助教授、筑波大学人文社会系准教授を経て現職。米国ハーバード大学ライシャワー日本研究所客員研究員(フルブライト研究員2010−2011)、独ベルリン自由大学客員研究員(2018-2019)。著書に『文化と暴力――揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物――王国の魔法をとく』(筑摩選書)、訳書『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社)のほか、ジュディス・バトラー『アセンブリ――行為遂行性・複数性・政治』(青土社)、『非暴力の力』(青土社)、『自分自身を説明すること』(月曜社)、『権力の心的な生―主体化=服従化に関する諸理論』(月曜社)、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『叛逆―マルチチュードの民主主義宣言』(NHKブックス)、ディヴィッド・ライアン『9・11以後の監視:〈監視社会〉と〈自由〉』(明石書店)、ノーム・チョムスキー『知識人の責任』(青弓社)など共訳多数。

目次

転換期の時代を生きつつ探究を深める

都築正明(IT批評編集部、以下――)先生のご研究されている内容について教えてください。

清水知子氏(以下、清水)私の専門は、文化理論とメディア文化論です。現在はアートとテクノロジー、動物、ジェンダーを軸に芸術と政治をめぐる事柄について、多角的に研究しています。もともと現代社会におけるメディア環境を中心に、アートと政治について、文化と暴力の観点から考えてきました。特に21世紀になってからは、資本主義やレイシズム、それにジェンダーの諸問題のありようが大きく変わってきていますし、社会におけるリベラリズムの位置づけも変化しています。こうした変化を捉えるためには、テクノロジーやその影響を捨象して考えることはできません。特に人工知能をはじめとする新しいテクノロジーを扱いながら現代社会の問題を問いなおすためには、これまでの知識の蓄積だけではなく、新しい問いを立てて考えなくてはなりません。これまで当然視していたもの、あるいは常識だとされていたものを別の角度から考えていく必要があると思います。

先生は青年期に冷戦構造が崩壊して、世界がよくなるのではないかと思われたころに、学生だった世代ですよね。

清水 はい、大学に入るころに冷戦が終結し、昭和天皇が亡くなりました。グローバル化とともにメディア環境も大きく変容し、歴史的な転機に学生時代を過ごしたのだと感じています。そこから、より開かれたデモクラティックな未来が拓かれていくのではないかと思いきや、現実には、世界はむしろ分断を深め、ディストピア的な様相を強めていくという想定外の展開を肌で感じていました。

先生も、当時のニュー・アカデミズムに大きく触発されたタイプの学生でしたか。

清水 そうですね。ポスト構造主義やフランス現代思想には強く惹かれていました。その一方で、もう少しアクチュアルに現代文化にコミットしたいと思い、カルチュラル・スタディーズが発祥したイギリスのバーミンガム大学に留学しました。イギリス特有の政治的、文化的土壌には大きな魅力を感じていましたが、戦後世界、とりわけメディアやポピュラリティの問題を考えるには、イギリスも日本もアメリカの存在を抜きに語ることはできないと思いました。のちにハーバード大学にフルブライト研究員として赴任し、いわゆるエリート層のリベラリズムに直接触れる機会を得ました。そこで感じたのは、イギリスのようにローカルな文化に根ざし、ウィットに富んだアートやアクティヴィズムを展開していく政治性とは異なり、グローバルな視点から「正義」を語るリベラルな雰囲気でした。その「正義」はどこから来ているのか、その思想的な源泉はどのようなものなのかといった点に関心を抱きました。

当時はアートというよりも、政治状況などに関心を抱かれていたのですね。

清水 当初はそうしたことに関心がありましたが、徐々にそうした状況に対してアートがどのように応答し、新たな可能性を切り開き得るのかに惹かれていきました。2018年にはベルリン自由大学に客員研究員として滞在し、難民問題に取り組むアーティストたちの実践に注目しました。ベルリンでは、空き家を占拠してアートやパフォーマンスを展開するスクワッティングの文化がありました。そこでは空間を法的に「所有」するというよりも、むしろ制度的な所有の枠組みを一時的にずらし、その場をアクティヴィズムやコミュニティ形成の拠点として立ち上げる実践が行われていました。既存の権利関係を問い直すというより芸術と生活を結びつけながら新しい公共性を生み出していく場だったんです。前任校の筑波大学では現代文化学のコースを担当していましたが、東京藝術大学に移ってからは、メディアとアート、そして政治の関係に焦点を当てながら、特にアートがどのように批評的な契機を開くことができるのかという視点で研究を進めています。

9・11 米国同時多発テロのもたらしたインパクト

冷戦終結から間もなくして湾岸戦争があり、21世紀になると9・11(アメリカ同時多発テロ事件)があってイラク戦争が勃発し、いまはロシアとウクライナ、またイスラエルとパレスチナのガザ地区で紛争が起こっています。私たちは新しい戦争の時代を生きているわけですが、それと並行してテクノロジーの進化が密接に関わっている状況については、どのようにご覧になられていますか。

清水 21世紀の幕開けを決定づけたのは、やはり9・11だったと思います。世界を二分していたかにみえた冷戦体制は終結したはずなのに、むしろそこから急激に「こちら側につくか/向こう側につくか」という、2項対立の枠組みへと押し込められていきました。その構図はイスラム原理主義の台頭から、いまのネットの分断や陰謀論に至るまで、ずっと継続しているように思います。「あれか/これか」という思考様式はそれ以外のオルタナティヴな可能性を想像する力を剥奪するものであるように思います。本来なら選び取ることができたかもしれない道が、はじめから閉ざされ、すべてが友敵関係に還元されるようになった――この思考回路の拡大こそ、9・11以降の時代を象徴するものだと感じています。とりわけインターネット文化は、この図式を加速させる役割を果たしました。SNSの普及によって、これまで表に出にくかった妬みや憎しみ、嫉妬といった負の感情が匿名性を盾に可視化され、瞬時に増幅されるようになりました。またメディアそのものもアテンション・エコノミーへとシフトし、内容の質や意味よりも面白そうなものを素早く循環させることがポイントになっていきました。敵対関係を生み出す2分法的思考と、速度と循環を優先するメディア環境が相互に作用し合うことで、私たちはかつてない規模の分断に直面しているように感じています。

そうした相互不信のもとで、ピーター・ティールのようなテクノ・リバタリアンが「自由と民主主義はもはや両立しない」という思想のもとで「安全を取るか/プライバシーを取るか」という二者択一を迫り、監視社会へと傾倒していくという流れを生んでいます。

桐原永叔(IT批評編集長、以下桐原)冷戦が集結した直後にフランシス・フクヤマが政治的な対立軸がなくなったとする「歴史の終わり」を論じましたが、どのみち新しい対立が生まれるだろうと多くの人は冷笑的に受け止めていました。9・11は、まさに新しい対立として大きなインパクトを持って受け止められたのだと思います。当時、映像を観ながら」2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)」に「テロリストも怖いけど、アメリカ政府もかなり怖い」と書きこんだところ、「亡くなった犠牲者に同じことを言えるのか」とレスが殺到し軽く炎上しました。そこで体感したのは、なんでも言えるがゆえに、なにも言えない時代になったことでした。

清水 9・11は「ハリウッド的な想像力が現実化した」と評されることもありましたが、社会学者のサスキア・サッセン1は、ツインタワーを攻撃したイスラーム原理主義者たちがアメリカとの構造的な不均衡を長く訴えてきたにもかかわらず、その声が交渉や対話の場で顧みられることはなく、最終的にあのような暴力的な行為へと追い込まれていったのではないか、と論じていました。私自身も、その構図には説得力があると感じました。もちろん、あの出来事で命を奪われた無数の人々の苦しみを軽視するつもりはまったくありません。むしろ、そうした悲劇を経てもなお、資本主義が生み出す深刻な不均衡やそれを見過ごしてきたアメリカ的な覇権のあり方について、どのように語りうるのかという点が気になっていました。

桐原 当時、評論家の四方田犬彦さんが「世の中の底が抜けた」と評されていました。ある種の極論が現実になったときに、大きな歴史の溝を超えたのだろうと思いましたし、それが現在の分断にも繋がっているようにも感じられます。余談ですがその評論で四方田さんは「もしジャン・ジュネが生きていたらシャンパンで乾杯しただろう」とも書かれていました。

社会学者の宮台真司さんは9・11について「相互信頼という社会の底が抜けた」と評されていましたし、同世代のある批評家は「その手があったか!」と快哉を叫んでいました。数日後に金井美恵子さんと青山真治さんのトークショーがあったのですが、そこでも当時の不思議な高揚感について語られていました。

清水 ジュディス・バトラー2も指摘しているように、9・11以降のアメリカは自衛の名のもとにすさまじい勢いで愛国主義と軍備強化に走りました。ドナルド・トランプのMAGA(Make America Great Again)というスローガンにも、そうした被害者意識を裏返したかたちの優越感と排他性が潜んでいると思います。「テロとの戦争」以後、戦争はもはや国家間の戦争ではなくなり、テロリズムは「国家テロ」を指すものではなくなりました。ここで重要だと思うのは、哲学者の鵜飼哲さんが論じたように、9・11を契機に「テロリスト」というカテゴリーそのものの定義が大きく変質してしまったことです。グローバル資本主義のもとで増幅される不均衡が、ローカルな社会の亀裂とナショナルな敵対の構図を重ね合わせ、暴力という極端な表現を生み出してしまう。9・11の後、そうした構造的な歪みが顕在化していく過程を感じていました。

先生の博士論文を元にした著書『文化と暴力』を現在の地点から拝読して、とても興味深かったです。サッチャリズムが終焉して、ブレア政権のブレーンだったアンソニー・ギデンズが、福祉国家でも新自由主義国家でもない「第3の道」を提唱して世界の進む方向性を示したと思いきや9・11で途絶し、イギリスはイラク戦争にも参戦します。そこからイギリスがEU離脱に至る端緒を示唆するようでした。

清水 ありがとうございます。私たちの世代は、ちょうど過渡期にあたるのかと思います。バブル経済の崩壊を目撃し、「失われた10年」がやがて20年となり、いまや30年に及ぼうとしています。その長期停滞の起点に立ち会った世代ですよね。もちろん、世代論に単純に還元することは避けたいのですが、バブル景気に沸いていた先行世代を眺めながら育ち、いざ自分たちが社会に出ると、そこにはまったく異なる現実が広がっていた。その断絶感や落差は、私たちが経験した社会の風景を大きく規定していると思います。

雨宮処凛さんが“プレカリアート”として論壇に立ってきたのが2006年、湯浅誠さんが“反貧困ネットワーク”の結成を呼びかけて“年越し派遣村”を実施したのが2007年のことですが、1970〜75年生まれの私たちの世代は、状況に戸惑うばかりだった記憶があります。

清水 1995年には阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が立て続けに起こり、日本社会全体が大きな混乱と不安に覆われました。2000年代半ばに「プレカリアート」や「反貧困」といった言葉が登場したとき、それは唐突なスローガンとして現れたのではなく、90年代半ばから積み重なってきた不安や断絶感の表面化だったと思います。

ジジェク自身によるジジェク

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清水 知子, 野々村 文宏, 浅見 克彦 (翻訳)

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