データ社会の不可視な<私>とネットワーク ──包摂とケアの主体としての個と協働を再考する
第3回 参与する知と介入する身体──周縁空間における法と倫理のジレンマ

国家や地域の機能不全により放置された都市の空白地帯において、スディール・ヴェンカテッシュは研究者としての規範と逸脱の狭間に身を置いた。暴力と取引が日常化した空間で、彼はシノギ人“ミスター・センセイ”として制度外の秩序と経済の実相に肉迫し、社会調査の倫理と限界そのものを問いなおす。
目次
シノギ人としての社会学者
先述のような学術カルチャーを持つシカゴ大学社会学部でも、ギャングと“ツルむ”スディール・ヴェンカテッシュのような参与観察は破天荒すぎたようだ。ギャングの主要業務は”クラック売買だし、界隈では売春や盗品売買が行われ、トラブル解決には暴力がつきものだ。どれをとっても違法ずくめなうえ、ギャング間の抗争だってある。
ヴェンカテッシュ自身も、傍観者でいることと倫理観とのギャップに苛まれることが多く、学内では自分の調査について多くを語らなかったようだ。指導教官のビル・ウィルソン教授からは、弁護士に相談することを命じられる。
弁護士が告げたのは、以下の通り。研究者には、一般人と同じく物理的な暴力については警察に通報する義務がある。また弁護士や医者、聖職者のような顧客に対する守秘義務もない。マスコミのように情報源の秘匿も保護されておらず、ギャングについて法廷で証言することを求められて拒否すれば、法廷侮辱罪に問われる可能性もある。
ヴェンカテッシュは、自分の立場をコミュニティの人々に説明すること、そして研究の焦点をかれらの経済活動に絞ることを決めて、再びロバート・テイラー・ホームズを訪れる。
最初に訪れたミズ・ベイカーにはこう呆れられる「警察に言ったら白状しなきゃならないなんて、だれでも知ってる。密告だってみんなやってるけれど、裏切り者はぶちのめされる。せいぜい気をつけて自分のシノギをやりな」。
JTは「言っといてやりゃよかったなあ!」と驚いて言う。「オレは自分がム所に入るようなことは言わねえし、やらない。問題はお前がオレたちの側につくか、サツの側につくか、自分で決めることだ。いまんところオレたちはおまえがオレらの連れだとわかってる。ビクビクしないでやんな」。
学者としての立場、そして経済の実態研究について2人のお墨付きと協力をとりつけて、ヴェンカテッシュは旺盛に調査に励むこととなる。シノギ人“ミスター・センセイ”として。
社会学者、ギャングの1日リーダーになる
エリア内でさまざまなシノギ人たちの苦労を目にしたヴェンカテッシュは、JTに軽口をたたく「きみの仕事が難しいなんて信じられないな」。毎日ぶらぶらしていろんな人と握手して、派手なパーティをして何台もの車に乗って……そうした日々を過ごすJTが、たくさんのお金をもらいすぎだとヴェンカテッシュの目には映った。
JTはそれに「オーケー、んじゃお前やってみるか?」と応じる。そんな他愛もないやりとりから、シカゴ大の院生が“1日リーダー”を務めることになる。
当日、ヴェンカテッシュが“1日リーダー”になることが、治安担当のプライスと会計担当のTボーンの2人の幹部だけに知らされる。
ロバート・テイラー・ホームズの掃除を誰にさせるか、集会のために教会を借りる交渉、ギャングのメンバーに不利な取引をする商店への対応、収支の合わない売人グループへの指導、クラックに混ぜものをしたグループへの制裁、そして20以上の売人グループの見回りと頻発するトラブルの解決……暴力を振るうことは免じられていたものの、それらすべての責任と判断を求められたヴェンカテッシュは、JTの日常がいかにタフなものであるかを体得する。
そして類稀なリーダーシップを持つJTは、彼のグループが所属する巨大ギャング組織ブラック・キングスで、高いポジションを得ていくこととなる。
団地の解体とコミュニティの終焉
治外法権のロバート・テイラー・ホームズで、緊張のなかで均衡を保っていたJTとその周辺に、2つの悪いニュースが訪れる。
1つはFBIが本格的にRICO法(Racketeer Influenced and Corrupt Organizations Act:威力脅迫及び腐敗組織に関する連邦法)に基づいて、クラック売買を主業にするギャング集団の撲滅に乗り出したことだ。RICO法は、1970年にマフィアやコーサ・ノストラなどの犯罪組織を想定して成立したが、FBIは麻薬を密輸するメキシコ組織や、それをクラックに加工して販売するギャング集団にも適用して一斉捜索する方針を立てた。
地元の警察はギャングとそれなりに柔軟に付き合っていたものの、FBIからの下命のもとでは四角四面な捜査方針をとらざるを得ない。JTは捜査が自分の身に及ぶのを恐れていた。またヴェンカテッシュ自身も、調査ノートを捜索する警察による車上荒らしの憂き目にあっている。
また、クリントン大統領や各市長が、公営団地を取り壊す“HOPE VI政策”が発表される。なかでも「アメリカ最悪の場所」とまで称されたロバート・テイラー・ホームズは、その政策の筆頭に挙げられた。
ロバート・E. パークとともにシカゴ派社会学を牽引したエドワード・バージェスは、典型的な都市の推移モデルとして、中心業務地区から外側に向けて、遷移地帯→労働者住宅地帯→優良住宅地帯→通勤者住宅地帯をなす“同心円モデル”を提唱した。
ロバート・テイラー・ホームズは貧困層を含む典型的な遷移地帯に位置するものの、ヴェンカテッシュの指導教官ウィリアム・ジュリアス・ウィルソンは著書『アメリカのアンダークラス』や『アメリカ大都市の貧困と差別: 仕事がなくなるとき』において、これを失業・非婚・犯罪・教育機会の剥奪による構造的・空間的排除に基づくもので、人種差別と政策的管理が元凶だとしている。
閉鎖的な都市内部コロニーとしての地縁の消失は、ギャングにとっても、かれらに公的な治安や福祉を委ねていた地域住民にとっても死活問題だ。JTたちは、訴追されることとシノギの場を失うこととのダブルパンチに見舞われ、壊滅を目の前にしていた。
そんなある日、ギャングの会計担当幹部のTボーンが数冊のノートをヴェンカテッシュに手渡す。それはギャングの収入──クラックの売上やみかじめ料──と支出──コカインや武器の仕入れ代や警官への賄賂、ギャングのメンバー全員の給与──が詳細に示されたものだった。これをスティーヴン・D・レヴィットとともに研究したのが『ヤバい経済学』第4章のネタ元となる。
ウィリアム・ジュリアス ウィルソン (著)
青木 秀男 (監訳),平川 茂 (訳),牛草 英晴 (訳)
明石書店
ISBN:978-4750312354
ウィルソン,ウィリアム・ジュリアス (著)
川島 正樹 / 竹本 友子 (訳)
明石書店
ISBN:978-4750311418
スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー (著)
望月衛 (翻訳)
東洋経済新報社
ISBN:978-4492313787