ライター/編集者・稲田豊史氏に聞く
第5回 成熟社会における“成長しない”人間と企業の生き残り戦略

のび太はなぜ成長しないのか──藤子・F・不二雄の人間観は、能力や成長を前提としない、弱点・欠点の肯定にある。そこに介入するドラえもんの役割は、人間の欠損を補うテクノロジーのメタファーに近い。成長信仰に覆われた現代社会に、この世界観は何を示唆するのか。

稲田豊史(いなだ とよし)
1974年生まれ。愛知県出身、横浜国立大学卒業。映画配給会社および出版社で、ゲーム業界誌の編集記者、DVD業界誌の編集長、書籍編集者を経て独立。主な分野は映画をはじめとしたポップカルチャー、エンタテイメントビジネス、メディア論、離婚、藤子・F・不二雄、ポテトチップスなど。
著書に、新書大賞2023第2位の『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)ほか、『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)、『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『オトメゴコロスタディーズ フィクションから学ぶ現代女子事情』(サイゾー)、『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)、『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)などがある。
目次
藤子・F・不二雄の人間観
桐原永叔(以下、──)F先生はのび太を成長しない存在として描いているわけですが、稲田さんは、F先生の人間観をどうご覧になっていますか。
稲田 読み解くキーワードがあるとすれば、落語です。F先生は落語が好きで、落語がモチーフと思われる話もたびたび『ドラえもん』で描いています。落語って、立川談志流に言うと「人間の業の肯定」じゃないですか。人間というのはそもそもダメな存在で、ほっといたら堕落するけれども、そういう不完全性、ダメさ加減も認めて受け入れたうえで愛そうじゃないかという。おそらくF先生の人間観もそこに近いのだと思います。だからこそ、のび太は一切成長しない。とはいえ「ダメだけど、それでいい」とも言わない。ダメだという事実をただただ描く。そこからにじみ出る滑稽さや人間臭さが作品の味になっています。
そのあたりはドライというか、現状を冷徹に見ていますよね。
稲田 F先生は、現実社会に存在する格差を隠さず描きます。スネ夫は露骨に金持ちの子である一方、バラックに住んでいる同級生も描く。良いも悪いもなく、世界とはそういうものであるという世界観なんです。人間の能力もそう。人間には必ず能力差があって、のび太のように、何も悪いことはしていないのに、もともと能力が低くドジで視力が悪い人間もいる。生まれつき不平等なのがこの人間社会です。この世界は平等でも公平でもない。格差があることは潔く認めたうえで生きていこうと。諦念みたいなものです。そういう世界にドラえもんがちょっと介入しているだけの話なんですよ。
じゃあドラえもんの役割は何かといったら、のび太が無用に絶望しないようにすることです。のび太のスペックを上げて成績を上げようとか、教室内ヒエラルキーのポジションを上げようなんてことは1ミリも考えてない。眼鏡に象徴される、どうしようもなく生きづらい状況だけを、最低限の範囲で助けているだけ。大人になったのび太が、視力「だけ」回復しているのは、それを象徴している気がします。
個人的な質問になりますが、稲田さんはのび太に感情移入して読まれるわけですか。
稲田 いえ、子供の頃からぜんぜん感情移入していません。のび太と違って比較的学校の勉強はできたので(笑)。そういう意味でも、自分を助けてくれる高スペックの存在としてドラえもんが好きだったわけではないし、のび太の成長など微塵も求めていませんでした。では何がそんなに好きだったかと言えば、F先生一流の短編ストーリーテリングの上手さとか、道具の持つ皮肉めいた機能性とか、ドラえもんとのび太のコミュニケーションとか。そういう部分に惹かれて単行本をボロボロになるまで読み倒しました。
成長しない人間にテクノロジーはどうかかわってくるのか
のび太は成長しませんが、ひたすら成長を求められる今の世の中、企業が成長しないなんてあり得ないと言われるわけですよ。
稲田 資本主義社会において、成長を求めない企業はNGですよね。
能力主義を支えている自由主義的な考え方で言うと、人間は持って生まれた状態では平等なので、成長しないのは努力していないからという発想になる。でも、F先生は持って生まれた状態から人間なんて変わりはしない、努力なんかで変わりようがないという考え方です。成長しない人間にテクノロジーはどうかかわってくるのか、稲田さんはどう考えていらっしゃいますか。
稲田 僕は、テクノロジーは「穴」を埋めるためのものだと思っています。車椅子を想像してもらうといいのですが、日常生活や社会生活を送るにあたって、不自由な部分をテクノロジーがアシスト、サポートするのはすごく「正しい」。あるいは、先ほど言ったみたいに、本当はものすごい作曲能力があるとか、卓越した文才があるのに、何かの理由によってそこに到達することができない人をサポートするために役に立つのがテクノロジーではないでしょうか。本来もっている能力を発揮する「状況」をつくってやる。義手や義足のイメージです。元々もっていない能力を付与するものじゃない。ゼロから1にするのではなく、「障碍物を取り除いてやる」のがいいテクノロジーだと思うんですよね。
でもテクノロジーを使役的に考える人はそうではありません。人間には運べない荷物を自動車だったら運べる。人間には計算できない計算式をコンピュータなら解く。穴を埋める、障碍物を取り除いてやるというよりは、「2本しかない手を1本増やして3本にする」みたいな足し算志向、プラスオン志向。能力補完ではなく能力強化。そういう考え方で技術を発展させてきたのが西洋だと思うんですけど、少なくともドラえもん的な発想はそうではない。著しく普通の人よりダメな人間ののび太をお世話するために来たのは、マイナスをゼロにするため。進学塾ではなくて補習塾のようなものです。
AIによって人間の能力がスポイルされる論調も耳にしますが、そのあたりはどう考えていますか。
稲田 足の不自由な人が10メートル歩くのに10分かかるとしましょう。でもテクノロジーを使ったら2秒で歩ける。努力と根性によって10分かけて10メートル歩くという発想もあるけど、そこに10分かけるくらいだったら、テクノロジーの力で2秒で到達させてやり、残りの9分58秒は別のことに使う。それがテクノロジーの正しい使い方じゃないでしょうか。ただし、その9分58秒を何に使うんだという問いにはまた別の答えが必要ですし、いまだ答えは出ていない気がします。
面白いですね。ビジネスマンでよく出てくる話は、AIを使って効率を上げて、空いた時間でまた別の仕事ができると。
稲田 それは、常時やるべきTo Doがある人に限った話ですよね。常に机が積読状態の人は、時間が空いたら待機中の本をどんどん読めるけど、積読自体がない人は時間が空いても読むものがない。ChatGPTでレポートを書いている大学生にも同じことが言えます。2000字のレポートなんてChatGPTで1分もかけずに書けるわけですよ。じゃあそれで空いた時間を何か有用なことに使っているか、使っていないかが、優秀か優秀じゃないかの違いになってくる。たいしたことに時間を使っていない学生に関しては「テクノロジーがスポイルした」と言えますが。そんなこと言ったら、今までの社会もすべてそうだったわけで。さっきの小沢さんの話じゃないけど、ワープロが出てきたときに漢字が書けなくなる、人間がスポイルされるってさんざん言われたじゃないですか。
作家の安部公房がワープロで小説を書きはじめたときに反発が多くあったようですし、ビデオが出てきたときに家で映画を見るなんて映画本来の楽しみじゃないって言われていました。
稲田 あらゆる時代、あらゆる場所で、新しい技術が登場したときに似たようなことが言われてきましたよね。
ピアノの音が粗野だとか音楽的でないと言われた時代もあったと聞きます。
稲田 そもそも「文字」自体が堕落なんですよ。記憶にしたがい語り部が発話によって語ること以上に臨場感とエモーションがこもるものはないのに、それを記号みたいなものに置き換え、それを読んだら物語を味わっただなんて、そんな堕落がございますか、と(笑)。大昔の人はそう言っていました。
ソクラテスもブッダも書き残してないですものね。孔子もない。みんな弟子が、師匠はこう言いましたって書いているだけです。
稲田 アウトプットされたものの質が担保されているんだったら、途中のプロセスでワープロを使おうがAIを使おうがいいはずですが、AIを使うと堕落の烙印を押される。AI反対派は、自分でゼロイチで文章を生み出す能力が培われないからダメだと言う。それはその通りですが、そんなこと言ったら、あなたは検索でGoogleを使ってませんか、すべて図書館で調べていますかという話になる。Google検索がChatGPTになっただけだと思えば、そのことによって衰退する能力は確かにあるでしょうが、その代わりにもっと違うことができる。そう考えれば、ChatGPTもテクノロジー正常進化の範囲内だと思います。