AIの倫理とその再配置を考える
第4回 ノン・モダニストとしての私たち

「私たちが近代的だったことなんて1度もない」──哲学者ラトゥールは、近代の二項対立を問いなおし、人間・非人間・媒介子を等しくアクターと見做すことで、科学や社会の生成過程を再構築する。彼のアクター・ネットワーク理論が描く「ノン・モダン」とはなにか
目次
- 達成せざる近代の見取り図
- ラトゥールの「近代憲法」:矛盾の構造
- ハイブリッドと純化の逆説
- 近代二元論を超克するアクター・ネットワーク理論のアプローチ
- ANTが拒否する近代の「二分法」
- 媒介子(モナド)という翻訳装置
- ノン・モダン――モダンでもなくポスト・モダンでもなく
- ラトゥールとポストモダン思想の距離感
- サイエンス・ウォーズにおける反論の姿勢
達成せざる近代の見取り図
ラトゥールの「近代憲法」:矛盾の構造
哲学者としてのラトゥールの代表作とされるのが1991年に刊行された『虚構の「近代」: 科学人類学は警告する』(川村久美子訳/新評論)である。よくあることだが、このタイトルは内容と合致していないとして多くの研究者から不興をかっている。編集者である筆者としては、そのあたりの“大人の事情”を斟酌する気持ちはあるが、あえてラトゥール風のユーモアを混じえて原題“Nous n’avons jamais été modernes――sous-titré Essai d’anthropologie symétrique”を訳してみると「私たちが近代的だったことなんて1度もない――対称人類学の試み」というところだろうか。
本書でラトゥールが繰り返し述べているのは“近代”が虚構であるということではなく、ラトゥールが“近代憲法(constitution)”と名指す理念が、常に自家撞着を抱えているということである。そこではむしろ“近代”は実在し、達成せざる欲望を内包したものとして描かれる。
ハイブリッドと純化の逆説
彼によると、近代というのは相反する2種類の実践が行われる場である。1つめの実践は、自然(non-human)と文化(human)とが“翻訳”により新しい異種混合(=ハイブリッド)がもたらされることである。
他方2つめの実践は“翻訳”によって、それを純化させることで一方では人間の、他方では非人間のあいだの領域が産出されるプロセスである。“近代憲法”とは“翻訳”によるハイブリッドの産出であり、同時にそれを純化することで分離するという働きでもあるということだ。ラトゥールが、近代を達成し得ない運動であると主張するのは、同書を引用すると「ハイブリッドについて思考するのを禁止すればするほど(つまり“純化”に徹するほど)、交配が可能になる」という逆説的な運動だからである。
ラトゥールのいう“近代憲法”の矛盾はあらゆる時代、あらゆる場所に存在する。世界には自然法則のみがあり、人にはそれをどうすることもできないとする自然主義者にとっては、人の意識や自由意志は無視しえないものとして現れる。他方、自然も人間の構築による認識だとする社会構築主義者にとっても、自然やその法則は介入してしまう。
虚構の「近代」: 科学人類学は警告する
川村 久美子 訳
新評論
ISBN:978-4794807595
近代二元論を超克するアクター・ネットワーク理論のアプローチ
ANTが拒否する近代の「二分法」
このように二元論的な“近代憲法”による自然(non-human)と人や社会(human)のハイブリッドを増殖させてきたことに対応するためには、およそ3つの方法が想定される。1つめは人や社会(human)と自然(non-human)とを明確化することだが、これは社会構築主義と自然主義との共約不可能性に陥る。2つめは両者の間に記号を設定する“記号論的展開”である。ANTが記号学に依拠してきた経緯もあり、ラトゥールは言語に自律性をもたせることで準モノ・準主観を扱えるとしてある程度評価する。3つめは両者から“存在”の概念のみを取り出して扱うことだが、ハイデガーの“存在忘却”的なノスタルジーをもたらすだけで、人とモノのハイブリッドの増殖を留めることには至らない。
媒介子(モナド)という翻訳装置
ラトゥールはハイブリッドから主観や社会由来のものと対象由来のものとを抽出し、中間項として残ったものを倍増させることで、2つの純粋系として捉える近代的手法を否定し、必要なことは、残ったものを中間項(アンテルメディエール)ではなく媒介子(モナド)として翻訳し、定義しなおして再配置することだとする。ここでいう“中間項”という用語は、デュルケームが『社会分業論』(田原音和訳/ちくま学芸文庫)で近代社会を論じた際に、国家と個人の間で社会規範や価値観を伝達する役割を持つ中間集団を指して用いた用語である。また“媒介子”はガブリエル・タルドがライプニッツ『モナドロジー』(谷川多佳子・岡部英男訳/岩波文庫)を援用して用いた用語で“中間項”がインプットとアウトプットを同じくする伝達を想定していることに対し、“媒介子”においては伝達の過程で変換や翻訳により内容が変容する、インプットとは異なるアウトプットをもたらすものとされる。ラトゥールは、人や社会(human)と自然(non-human)と媒介子をアクター/アクタントとして相互に作用してネットワークを理解することを提唱した。ANTは“モノの社会学”といわれることも多いが、このネットワーク上において人や社会、モノや存在、言説や記号がフラットに探究の対象とされる。
社会分業論
田原音和 訳
ちくま学芸文庫
ISBN:978-4480098313
モナドロジー 他二篇
田原音和 訳
岩波文庫
ISBN:978-4003361696
ノン・モダン―モダンでもなくポスト・モダンでもなく
ラトゥールとポストモダン思想の距離感
モナドというとドゥルーズ・ガタリの『差異と反復』(財津理訳/河出文庫)を、またネットワークというとフェリックス・ガタリ『千のプラトー』における“リゾーム”を想起する読者もいるだろう。実際に、タルドを再評価するとともにライプニッツのモナド論を発展させたのはドゥルーズであったし、フランス語でネットワークを意味する“réseau”は“rhizome(リゾーム)”と同じラテン語根を持つ。また対立構造をフラットに置き換えるということからデリダのいう“脱構築”や“平滑化”を連想するかもしれない。
『虚構の「近代」』には、限定された範囲を高精度で観察・制御する装置として“オリゴプティコン(oligopticon)”という述語が用いられるが、これは明らかにフーコーが権力装置として論じた一望監視装置“パノプティコン(panopticon)”に影響を受けている。フランス国内での同時代性を鑑みると、ポストモダニズムの論者たちの影響を受けていたと考えるのが妥当である。が、ラトゥールはポストモダニズムが従来の人(human)とモノ(non-human)の近代的二分法を完全に脱却できていないと指摘するとともに、批判のための批判を重ねながら、現実的な解を導き出すことをする相対主義的姿勢を非難している。
サイエンス・ウォーズにおける反論の姿勢
ラトゥールは自身について、近代を論じるモダニストでも近代以降を論じるポスト・モダニストでもない“ノン・モダニスト”であると名乗っている。
このIT批評でも、編集長エッセイ「テクノロジーはイデオロギーから遠く離れて」や本連載「“ポスト・トゥルース”時代のナラティブとハルシネーション」において、物理学者アラン・ソーカルが仕掛けた“ソーカル事件”について述べている。
自然科学用語を衒学的に用いる人文社会学者を揶揄したことから議論を巻き起こしたこの“サイエンス・ウォーズ”では、ポスト・モダニズム論者だけでなくSTSも科学実在論を貶める反実在論として批判の対象となった。
ソーカルと物理学者ジャン・ブリクモンの共著『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(田崎晴明他訳/岩波現代文庫)では、7人のポスト・モダン論者と並んでラトゥールが1章を割いて批判の俎上に乗せられている。論争のなかでソーカルの発した「ニュートン力学が反実在ならばビルの21階から飛び降りてみろ」という挑発に対し、ラトゥールは「私は事実の存在を否定しているわけではない」と反論している。
差異と反復
財津 理 訳
河出文庫
ISBN:978-4309462967
「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用
田崎 晴明, 大野 克嗣, 堀 茂樹 訳
岩波現代文庫
ISBN:978-4006002619