AIの倫理とその再配置を考える 第3回
科学的真理は暫定的である

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テキスト 都築 正明
IT批評編集部

生成AIがもたらす倫理的課題は、単に人間の判断に還元できない。アクター・ネットワーク理論(ANT)は、人間・非人間・媒介子が絡み合うネットワークのなかで、科学技術とその意味がどのように構築されるのかを照らし出す視座を与えてくれる。

目次

アクター・ネットワーク理論とは

パリ学派とバース学派の論争

ラボでの参与観察後、ラトゥールは当時在職していた1980年代にパリ国立高等鉱業学校イノベーション社会学センターにおいて、哲学者ミシェル・カロンのラボに参画し、イギリスの社会学者ジョン・ローらとともに共同研究を行うことになる。

ラボを主導したカロンは、人間中心主義からの脱却を説いたミシェル・セールの講演を聞き、異なる領域や次元間での知識や情報の移動や変換を行う“翻訳”概念にインスパイアされて研究を主導したという。

ANTの名付け親はジョン・ローで、彼はANTを単なる説明理論ではなく、社会現象を記述するための方法論として位置づけ、社会的なものをネットワーク内で生成される効果として捉えることを主張した。

“翻訳”としての知識移動

ローは“翻訳”を、アクター同士がネットワークを構築する際の準備や適応や変化のプロセスであるとして、ANTによる分析の中心的な概念とした。またローは、伝統的社会学の流れにおいて中心的研究テーマだった階級・ジェンダー・エスニシティの3つに加え、モノを第4の研究テーマに据えることを提唱した。

ラトゥールはパリ学派と称されたカロンのラボの論客として世界中の会議に参加し、哲学的素養を生かして、社会学や他の科学諸分野を巻き込んで議論や論争に積極的を行うこととなり、ときに揶揄を込めて“STSの広告塔”と呼ばれるようにもなる。

人間・非人間・媒介子の対称性

カロンやラトゥール、ローを中心に人(human)とモノ(non-human)との対称性を強調する“パリ学派”にたいして、STS内部でも、ANTに懐疑的な立場を表明するグループも現れた。当時イギリスバース大学に所属した“バース学派”の中心的人物であり“科学論第三の波”の提唱者であるハリー・コリンズは、モノ(non-human)をアクターとすることの無意味さを真っ向から批判している。またANTに同調しない英国系科学社会学者のなかには、と自分たちのアプローチをSTSではなくSSK(Sociology of Scientific Knowledge)だと自称する者もいる。

余談にはなるが今日的な例として、2001年に刊行されたハリー・コリンズとトレヴァー・ピンチの共著『迷路のなかのテクノロジー』(村上陽一郎訳/化学同人)は『解放されたゴーレム:科学技術の不確実性について』(村上陽一郎・平川秀幸訳/ちくま学芸文庫)として2020年に復刊されている。

ブレグジットや第1次トランプ大統領選のもとで“ポスト・トゥルース”がいわれ、COVID-19が猛威を振るった2020年以降、日本でも政治不信やオリンピック開催延期などの不安定さをもとにディストピアを描いた小説や漫画、論説の復刊が相次いだが、同書の文庫化復刊もその1つだろう。現在がまだその延長にあることはいうまでもない。

解放されたゴーレム: 科学技術の不確実性について

解放されたゴーレム: 科学技術の不確実性について

ハリー・コリンズ, トレヴァー・ピンチ 著

村上 陽一郎, その他 訳

ちくま学芸文庫

ISBN:978-4480510228

ハルシネーションとしての科学的真理

パスツールvsプーシェ:微生物論争の再考

いまなお今日的な影響を及ぼしているCOVID-19の猛威について参照しうるラトゥールの論考の1つに、ルイ・パスツールについて論じた『パストゥールあるいは微生物の戦争と平和、ならびに「非還元」』(荒金直人訳/以文社)がある。改めて記すまでもないが、パスツールは生物の自然発生説を否定するとともに、感染症の原因が微生物であることを解明し、さまざまなワクチンを開発した近代微生物学の始祖とされる人物である。

ラトゥールが着目したのは、生物の自然発生説を支持するフェリックス・アルシメード・プーシェと、それに反論するパスツールの論争である。発端は1858年にプーシェが空気中での自然発生が可能だとする論文をパリの科学アカデミーに提出し、それに反論するパスツールが1862年に提出した、プーシェのいう自然発生した生物は空気中の微生物に由来するという研究に同アカデミーが賞を与えた。両者は自説を譲らず、1864年にアカデミー主催の公開実験が開催された。パスツールの実験後、プーシェはアカデミーに不満を述べて実験を行わず退席したため、アカデミーはパスツールの勝利を宣言した。プーシェの実験は後に追試がなされ、特定条件下で成立することが判明している。

真理構築における“非人間の行為者”の役割

ラトゥールは、このパスツールの勝利を、当時高まっていた公衆衛生への関心を集めて微生物研究の社会的必要性を強調したこと、また家畜に用いられる炭疽菌ワクチンの実験により農業界に実用性をアピールしたこと、フランス科学アカデミーの審査制度を利用し、権威のもとで実験結果の正統性を担保したことにあるとした。

また、パスツールの実験で扱われた乳酸酵母を“非人間の行為者”と位置づけ、実験結果は微生物という行為者とパスツールの実験装置と理論とが相互作用する動的ネットワークのもとで構築された効果であると結論づけた。

暫定的真理のブラックボックス化と現代への示唆

ラトゥールはここに、乳酸酵母はパストゥールの培養条件の調整と理論的説明という実験的関与によって初めて科学的対象として構成したものの、その存在が再現実験や学術論文、さらに産業応用を経由して多くの行為者によって支えられると、あたかも最初から独立して実在していたかのように扱われるという、構築主義的立場から実在論的立場へと移行する矛盾を指摘する。

ここでは、パストゥールが乳酸酵母の存在を証明する権限を獲得する一方で、酵母自体もパストゥールに証明させる権限を与える存在として自立することが看取されている。また乳酸酵母が実在論的立場を獲得することで、パスツールの実験プロセスはブラックボックス化する。

この指摘は、実験結果の受容は絶対的ではなく社会的ネットワークの状態に依存しており、科学的真理が暫定的なものであること、また微生物や実験装置も“非人間の行為者”として社会変革に参与し得るということを示すANTの核心事例とされ、現在に至るSTSの中心的概念となっている。

もちろん私たちはパスツールの発見や開発によるワクチンの恩恵を大いに受けている。しかし多くの読者の方々は、2014年に画期的な発見とされたのちに、追試が不可能であることから研究者に帰責して騒動となったSTAP細胞(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency Cells:刺激惹起性多能性獲得細胞)において、否定的な面からの科学的事実の暫定性を記憶されていることと思う。

そう捉えると、パスツールがリール大学理事長就任時のスピーチで述べた“le hasard ne favorise que les esprits préparés「幸運は用意された心のみに宿る」(英訳:Chance favors the prepared mind)”という言葉も、アイロニカルに聞こえてくる。

パストゥールあるいは微生物の戦争と平和、ならびに「非還元」

パストゥールあるいは微生物の戦争と平和、ならびに「非還元」

ブリュノ ラトゥール 著

荒金 直人 訳

以文社

ISBN:978-4753103782