人のパートナーとなるAIを探求する──慶應義塾大学教授・栗原 聡氏に聞く
第5回 来るべき共生社会を紡ぐヒューマンな知性と感性とは

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聞き手 都築 正明
IT批評編集部

自律型AIの到来は往々にして人類の脅威として語られる。人がそれを恐れるのは、私たちの自律性や社会そのものが揺らいでいるからかもしれない。AIと人との関係を構想する最前線に立つ栗原氏が人と教育について語る、インタビュー最終回。

栗原聡氏の肖像

栗原聡(くりはらさとし)

慶應義塾大学理工学部教授。人工知能学会会長。慶應義塾大学共生知能創発社会研究センター センター長、慶應義塾大学大学院理工学研究所修了。工学博士。NTT基礎研究所、大阪大学、電気通信大学を経て2018年より現職。科学技術振興機構(JST)さきがけ社会変革基盤領域 研究総括。人工知能学会倫理委員会副委員長。オムロンサイニックエックス社外取締役、情報法制研究所上席研究員、総務省情報通信法学研究会構成員など。専門はマルチエージェントモデル、複雑ネットワーク科学、計算社会科学。著書『AI兵器と未来社会 キラーロボットの正体』(朝日選書)、『AIにはできない』(角川新書)、共編著『人工知能学大事典』(共立出版)など多数。

目次

生産性と効率性重視がもたらす排除の図式

桐原 永叔 (IT批評編集長 以下桐原) 多様性と能力主義の関係でいうと、スキルがない人は努力が足りないのだとするメリトクラシー的な考えが常識のようになっています。これは“ドラえもん”の世界観でいえば、のび太が頑張らないから、不幸で友だちもいなくて、いじめられてもしょうがないという図式になります。しかし、のび太のような個性を認められなければ日本社会では多様性を確保できないではないかと考えます。私はAIを開発する企業で役員を務めているのですが、生産性と効率性だけを目的にAIのサービスを考えても、すでにレッドオーシャンです。だとしたら、生産性と効率性にとどまらない、のび太のような人たちをエンパワーメントしてダイバーシティを実現するようなAIのサービスを考える必要があると思っています。

栗原 聡氏(以下栗原)  私もおっしゃる通りだと思います。ぐうたらも立派な個性ですから。日本には、ぐうたらな子どもをしっかりさせるという教育観しかありません。2019年から、初等中等教育で「GIGA(Global and Innovation Gateway for All)スクール構想」が開始されました。構想そのものはたしかに正当なことを言っているのですが、実際の現場レベルでいえば子どもにタブレット端末やパソコンを配るだけというケースも散見されます。そうすると子どもたちからは、楽をすることを覚えイノベーションの力や思考力が奪われていきます。TEZUKA2023の話題でも触れましたが、イノベーションの力というのは自ら湧き出るインセンティブを原動力として生みだそうとする力ですから。人間は五感を生かしてさまざまなものを見たり経験したり感じたりしながら、友だちと交流することも社会性を学ぶためにとても重要です。知識というのは、そのうえで役に立つものですから。そうした貴重な時間を削いでIT機器だけを使えば、思考力や発想は失われていきます。そもそもテクノロジーは人間が楽をするために進化してきたわけです。脳に対して認知負荷をかけない状態が継続することで、人の思考能力は低下するという研究もあります。つまりは、分からないことがあればすぐに検索し、SNSで気になる情報が通知されれば、その通知に対してしっかり解釈や真偽を確かめることなくリツイートしてしまう日常を繰り返していれば、考える能力は必然的に低下するというわけです。

都築正明(以下――) ジョン・スウェラーが提唱した認知負荷理論(Cognitive Load Theory)の流れにある認知科学と教育の理論ですよね。先生は『AIにはできない』でも、中学生ぐらいまでは、さまざまな経験を積むことが大切だと書かれています。ビル・ゲイツとメリンダは14歳まで子どもにスマートフォンを持たせなかったそうですし、スティーヴ・ジョブスも子どもにiPadをはじめとするデジタル・ガジェットに触れる機会を厳しく制限していたといわれています。

栗原 オーストリアやニュージーランドの16歳以下のSNS禁止や、ユネスコが呼びかける学校内へのスマートフォン持ち込み禁止にも、私は大賛成です。たいした意図もなくタブレット端末を配るぐらいだったら、禁止してまったほうがよっぽどよいです。創造力は平均的な能力ではなく、個々の能力に応じますから。

桐原 日本がAI産業としてコンテンツ・ビジネスを育てていくためには、生まれながらにIT技術に触れている、デジタル・ネイチャーといわれる若い人たちのスキルも重視すべきだとは思うのですが──。

栗原 一律にだめだとは思いません。しかし、若いころからデジタル・ガジェットやSNSばかりを使っている人よりも、まずは豊な感性や洞察力、状況理解能力、文脈把握能力といったしっかりした人間力を身に付けた後で、ITスキルを身に付けた人のほうが、明らかに高い創造性を持つでしょう。今年の春に、全国の新聞社が一体となり、小学生のプログラミング教育を推進する“小学生全国選抜プログラミングコンテスト”の審査員を務めました。全国の小学校3年生から6年生までの約1,200組の子どもたちが、各都道府県大会で競って、各地方大会で優勝した子どもたちが出場する大会です。そこで競われているのは、単なるプログラミングの技術ではありません。お年寄りを振り込め詐欺から救ったり、過疎化で地元のお祭りの獅子舞が存亡の危機に陥ったことをロボットを使って解決するなど、現実の問題を理解したうえで調べたり聞いたりして勉強して、そのうえでプログラミングによってどう解決できるかを考えて実装するということが1つのパッケージです。全国から集まったたかだか47組ですから、ギフテッドな子どもたちといってよいでしょう。明らかに2極化が進んでいることを実感したわけです。初めての参加でしたが、とても感心するとともに感動しました。審査員には文部科学省初中局の教育課程課長も来ていましたが、従来において国は子どもの学力を平均的に上げることを考えています。もちろんそれは正しいと思うわけですが、しかし平均的な学力だけを向上させる育て方では、大会に参加した子どもたちのように飛び抜けた才能を抑え込んでしまう可能性があります。

個性尊重を謳いながら、OECDが進めているPISA(Programme for International Student Assessment:学習到達度調査)のスコアに一喜一憂しているのが、今までの教育行政の実態です。

栗原 アメリカでは小学生でも大学に入れますが、日本には飛び級の制度がありません。日本にその制度を導入すると、不公平感が生じるかもしれません。しかし平均的な学力を維持しつつ、ギフテッドな人たちを伸ばすことが必要だと、今回あらたに痛感しました。もちろん全体のレベルアップは絶対に必要です。圧倒的多数を切り捨て少数精鋭とするより、平均的レベルアップをする過程で、多様性を尊重し、突き抜ける才能はそのまま引き延ばす教育の仕組みができることが理想なのだと思います。

少数のイノベーティブな人たちを伸ばさなければ、そのスケールする素地を生かせないということですね。システム開発でいうと、コーディングやデバッグはAIが得意とする分野ですから、ニーズを発見したり要件定義を行ったりする上流工程のところがより重要になってくるということですね。

栗原 重要なのは、周囲にどのような社会問題があって、その問題がどのような構造に基づいているのかを理解できて、それを解決するためにはどうすればよいかを考えることです。プログラミングというのは、そのうえで必要になるツールに過ぎません。プログラミングスキルというのは、いつからでも身につけられますから。一方、豊かな人間関係や柔軟な発想というのは、脳が柔らかい幼少期でなければ育むことができません。IT機器を器用に使いこなせても、実りある将来像を考えることはできません。夢を語ってほしいときに、近視眼的な世界像しか描けないようでは未来をつくることはできません。しかし教育において重要なのは、それを子どもたちのせいにしてはならないということです。大学生や若い人についても同じことがいえます。

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