カントが批判三部作を著す契機となった経験論者――そう捉えられることの多いデヴィット・ヒュームだが、20世紀にフランスの哲学者たちにより再評価される。今回はジル・ドゥルーズのヒューム論を紹介するが、その内容はここで紹介したチェイターやホーキンスの説に符合するだけでなく、今日的課題を示唆するようにもみえる。
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機械は人と同じ知能を持つか
冒頭に挙げたニック・チェイターはヒュームの次のフレーズを引用する。「私が自分自身と呼ぶものの最も近くに入っていくとき、熱や冷たさ、光や影、愛や憎しみ、苦痛や快楽といった特定の知覚と決まって出くわす。何らかの知覚抜きに自分自身なるものは決して捉え得ないし、知覚以外のどんなものも決して観察し得ない」(『人間本性論』)。その上で、思考のサイクルの観点から、意識的経験とは意味を持つように整理統合された感覚情報を経験することであり、感覚世界にない自己というものを意識することはナンセンスだと断じる。脳が知覚できるのは、自己について語る声や、書籍や液晶画面に映る文字だけであり、その背後にある思考を意識することはできない。脳が知覚するものは文字だけであり、その内奥にあるものを知覚することはできず、言葉の背後の心というものは、なおさら意識することができないとする。またチェイターは、メタレベルで意識を観察する高次意識の存在も否定する。フラットな心は、バラバラで省略されたイメージや音声、言葉といったものしか意識できない。バラバラのピースに意味づけを行い、即興でまとめあげる柔軟な想像力こそが人の知性だとチェイターはいう。それゆえに、彼は現在の計算機的な人工知能は、人のように前例を拡大し、混交し、再設計する人のような生物学的知性とは別のもので、実現できるとしてもずっと先のことだという。
この考えは、ジェフ・ホーキンスが「現行の>AIには“I(Intelligence)”はない」とする論旨にも附合する。ホーキンスのいう人の知能の特性は、絶えず動きによって学習し、多くのモデルを持ち、知識を座標系に保存することである。これらの特徴を持ち、新しい課題を素早く学習し、異なる課題間の類似性を理解することで、未知の問題を柔軟に解決できるようになれば、機械知能としてのAIはAGI(Artificial General Intelligence:人工汎用知能)になりえるとする。ベルクソンのいう“エラン・ヴィタール”のような生命の跳躍が過去のものとなった現在、そしAGIが到来する未来のいつかの時点では、AGIは意識を持つとみなされて“ハード・プロブレム”どころか、問題ですらなくなるという。またホーキンスは、AGIが人類の脅威となる未来は到来しないだろうという。知能と合理性を司る“新しい脳”にたいして、人々を脅かす欲望や感情を司るのは“古い脳”の役割なのがその理由である。あくまでも、人がそれを意図的に埋め込まない限りではあるが。