選択と相対 ヒュームと因果推論
第5回 神なき時代の反実仮想

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著者 桐原 永叔
IT批評編集長

芸術は反実仮想の思考によって、希望や未来を描き出す。統計学や量子力学、ポストモダン思想が世界の相対性を示す中、文学や映画は直観的に世界を理解する術を提供してきた。人生の分岐点における「あのとき、こうしていれば」という思考は、まさに反省の本質であり、社会のあり方を問い直す力を持つ。

目次

フィクションとは反実仮想である

前提となる本質や絶対を認めず因果関係を遠ざけ相対主義に覆われた世界への向き合い方は、統計学、量子力学、ポストモダン思想だけではなく、映画や文学といった芸術にも影響を与えた。極論すれば、近代という神なき時代における主だった芸術作品はすべてこの潮流のうちに眺めることもできる。そこにはたとえば、ポリフォニックなドストエフスキーの小説があり、黒澤明の「羅生門」が発明した映像話法がある。

そのうえで、芸術の多くはフィクショナルなものである。フィクションとはまさに反実仮想である。文学や映画が、社会にとって必要な機能を果たしてきたのは反実仮想の能力による部分も小さくない。客観的に観ることを許されない世界と対峙して、主観的な体験を繊細に描出することで、直観的に世界を掴みとる術と考え方のヒントを与えてきたものが芸術なのではないかと思う。

データによる判断ではなく、みずからの肌で感じる直観によって理解し行動する。パールは先述した「因果のはしご」の説明で、AIのような学習する機械は、はしごの一段目である現状を把握して要素を関連づける観察しかできず、環境への介入を可能する道具(手法)を手に入れた人間がなんとか二段目にあがることができる。存在しない世界を想像し観察した事象の原因を検討、判断できるのが三段目。その段階を20世紀以降の知的潮流のなかで担ってきたのは芸術である。芸術が客観的なデータでは証明されない世界と人生の真実を照らしてきたのだ。

羅生門 デジタル完全版
黒澤明 監督


「あのとき、こうしていれば」とともに生きる

翻っていえば、反実仮想がない芸術がいったいわたしたちに何を語りかけられるだろうか。反実仮想とは希望を語ることであり、未来を論じることだ。その希望や未来が現在の世界への見通しをはっきりさせてくれる。

人生にはさまざまな分岐点があり、その都度にわたしたちは選択を迫られる。日常のかすかな判断でさえそれは選択であり、その選択を変えればバタフライ効果よろしくまったく違う現在を発生させる可能性を秘めている。過去にもどって選択を変えることはできない。あるいは量子力学でいう多世界解釈のように、選択ごとに世界そのものが分岐しているとしても、わたしたちは並行する世界に移動することはできず、いまいる世界に留まるしかない。それは過去へ戻れないことと同じだ。
マルセル・カルネの古典的名作映画「天井桟敷の人々」の名台詞ではないが、過去をふりかえれば野獣のように喰らいつかれて現在さえ見失うのが、人の哀しさだろう。いくつもの「あのとき、こうしていれば」とともに生きるのが人なのだ。バチストとガランスの一夜が違ったものであったなら、というわけだ。そして、「あのとき、こうしていれば」こそ、反省そのものだ。

ネタバレになるので詳細は避けるが、本稿のテーマに沿うので紹介したい小説がある。わたし自身はネタバレに厳密ではないのだが、次に紹介する小説だけは前情報なく読んでほしいから、内容には立ち入らない。それは、昨年、亡くなったアメリカの小説家、ポール・オースターの『4321』(柴田元幸訳/新潮社)だ。A5判2段組800ページという長編に込められているのは、徹底的に反実仮想的な構成である。著者のオースター自身が「私の知る限り、この形式で小説を書いた人は誰もいない」というように、小説を読むことの新鮮な喜びを味わうことができる傑作だ。

『4321』にはケネディ大統領が暗殺された日のニューヨークの様子を描写するシーンがある。ダラスからのニュースに接した当時の若者たちの絶望を日本人のわたしたちはなかなか想像できない。アメリカにおいて大統領が政治リーダーであるのみならず国民的ヒーローであることを思い知らされるシーンだ。

果たしてトランプはどうか? トランプは就任早々に矢継ぎ早に選択、決断していっている。その選択がどういう希望と未来を指し、現在を照らしているのかはわたしにはわからない。

天井棧敷の人々
マルセル・カルネ 監督

4 3 2 1
ポール・オースター 著, 柴田元幸 訳
新潮社
ISBN978-4105217228


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