テクノロジーはイデオロギーから遠く離れて ポストモダンからポストヒューマンの時代へ
第3回 道徳判断の進化──功利主義、ブランクスレート説と21世紀の倫理

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著者 桐原 永叔
IT批評編集長

功利主義に基づく熟慮的判断と感情に左右される直感的判断──そのバランスをどのように取るべきだろうか。ベンジャミン・クリッツァーの『21世紀の道徳』を中心に、現代の道徳的選択における功利主義の有効性と限界を探る。また進化論やブランクスレート説など思想的偏りが道徳観念に与える影響を通じて、21世紀の倫理のあるべき姿を検討する。

目次

道徳の根拠としての功利主義

先に挙げたカーネマンのシステム1とシステム2からなる二重課程理論を道徳的な判断に活用しようと論じるのがハーバード大学心理学科教授であるジョシュア・グリーンだ。

京都生まれのベンジャミン・クリッツァーが著した『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』(晶文社)で、グリーンの二重課程理論を下敷きにした「オートモードの道徳」が重要なモチーフになっている。

直感的で速いシステム1によるものを「オートモードの道徳」と呼び、より感情的な判断にもとづく。それに対しシステム2にあたるのが「マニュアルモードの道徳」であり、理性的な判断にもとづく。

クリッツァーは、グリーンが主著で「道徳に関する人間の心理には欠点や限界があるからこそ、道徳に関する理論は、心理的な反応に左右されない理性的なものでなければならない」と主張したと述べる。つまり、システム1ではなくシステム2、オートモードではなくマニュアルモードこそ道徳判断には重要だというわけだ。

熟慮による道徳的判断は一見、それだけで正しいようだが、マニュアルモードに頼ることでかえって不純なファクターを呼び込んで判断が歪む可能性も高くなる。伝統や宗教にもとづいてしまう場合、自然科学の法則や数学の定理に従ってしまう場合、権利を過剰に重視してしまう場合など、グリーンは問題があるとして否定するという。

では、理性的であるために何を指針とするか。それをグリーンは功利主義にとる。そして、クリッツァーも功利主義の現実問題に対するクールにトレードオフを計算する、バランスのとれた判断こそ、もっとも道徳的である方法だと繰り返す。

功利主義は、行為の善悪を「最大多数の最大幸福」という基準で判断する倫理理論として有名だ。ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルが提唱し、強引にまとめればプロセスや姿勢より結果を重視して幸福や快楽を最大化する行動を是とするものである。

わたしはこれまでの記事のなかで、たとえば読書や芸術に対する態度の忌むべきものとして功利主義的なそれを挙げてきた。キャリアのための読書、お金儲けのための芸術といったものの不純や欺瞞をどこか許せなかったのだ。

しかし、クリッツァーの『21世紀の道徳』を読んですこし考えが変わった。クリッツァーは功利主義的な判断がいかに実用的で社会や共同体への貢献を大きくするかを論じていく。現実の世界で絶対的な正解は、ほとんどの場合えられない。そうだとしたら、もっとも利益(幸福)の大きい、あるいは被害(不幸)の小さい結果を客観的に予測して判断するべきなのだ。理性ではなく感情や情緒、それはたとえば思いやりや優しさであったとしても、感情的な判断は主観的になりやすく短絡しやすいのだから。

ボランティアや寄付といった活動を偽善と見なすような感情的な反応と、たとえそれが偽善や独善から発したものであったとしても、困窮する人々をより多く救いうるのは思いやりや優しさという心理ではなく、ボランティアや寄付なのも間違いない。

後天か、先天かの思想

クリッツァーは『21世紀の道徳』で「ダーウィン左翼」論をとりあげている。

左翼あるいはリベラルな思想こそ、生物学的に人間の本性を理解するうえで「進化論」から目を逸らすべきではないという倫理学者、ピーター・シンガーの論を紹介している。人間が本性としてどう判断し活動するか。熟慮なく本性に従った人間は道徳を見失うことになるだろう。だからこそ、人間の本性を深く理解しなければならない。

しかし、左派はダーウィンを嫌ってきた。

左派がダーウィニズムを嫌うもうひとつの理由が、「人がどうあるか決めているのは意識ではない。その逆であり、社会的な存在が意識を規定するのだ。」というマルクスの主張に代表されるような、「人間の本性は変わりうる」という信念である。

21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える

「人間の特徴や傾向は持って生まれたものなどまったくなく後天的に社会や文化によって備わったもの」という主張こそイデオロギーに多分に影響されたものであるとアメリカの心理学者、スティーブン・ピンカーをある意味、有名にした『人間の本性を考える〜心は「空白の石版」か』上中下(NHKブックス)で展開したブランクスレート説の有害性をクリッツァーは紹介している。ここの記事でも以前、ブランクスレート説にふれた際(#14知能はどこまで普遍的か? 「万能の学」としてのAI研究開発)に触れておいた論でもある。自分の文章だが、すこし引いておく。

この考え方(ポストモダン)は、生まれたての赤ん坊の心は真っ白で、環境次第であらゆる可能性が決まっていくとするブランクスレート説を支える。そして、人種や性別、階級など生まれの違いを越えた民主的な世の中をつくる根本でもある。しかし同時に、経験や実績を重んじるあまり成長できないのは努力のためだとする現代的なハラスメントの根っこでもある。

#14知能はどこまで普遍的か? 「万能の学」としてのAI研究開発

なぜ引用したかといえば、ブランクスレート説の有害性としてわたしもこのとき、メリトクラシーがもたらした弊害にもふれていたからだ。

人間の本性を考える 上 ――心は「空白の石版」か

スティーブン・ピンカー (著)

山下 篤子 (翻訳)

筑摩書房

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思想の偏りがもたらす誤謬の構造

自己の成功は、生まれつきのものではなく、その後の努力と苦難によって得られたという、専門技術者、経営者(管理者)からなる上級層の“正義”感を支え、勝ち残れない人たちより道徳的にも価値があるとするマインド──バイアスか!?──の根底にあるのも、このブランクスレート説である。そうしてみれば、この“正義”感と道徳的価値への自負もイデオロギーに多分に影響されたものといえるかもしれない。

余談めくが、先の引用にも登場する科学的社会主義の創始者であるマルクスは、世界最初の労働階級による国際組織・第一インターナショナルにおいてアナキストのバクーニンと激しく論争したことは有名だ。次節に参照する書籍で、バクーニンがマルクスは人間の本性を知らないと批判したことが紹介されている。

バクーニンはマルクスを権威的な姿勢で人々の支配を志向するような性格だと評したようだが、本稿のテーマに沿ったマルクス評を残した日本人がいる。ダーウィンに多大なる影響を受けた植物学者で生物学者の南方熊楠だ。

熊楠は次のように書き残している。『在野と独学の近代 ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで』(志村真幸著/中公新書)からの孫引きだが、現代にも通ずる批評かと思うので載せておきたい。

今日の社会論説は多く科学ことに生物学に基礎を置いたものというが、マルクスとかクロポトキンとかの論説に誤謬多き生物伝説に基けるもの多ければ、正確なる生物学上の事実に拠れるにあらざること多し

在野と独学の近代 ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで

本稿のテーマそのままの内容といってもいいぐらいかもしれない。なぜ、生物学上の事実を誤謬してしまうのか、それはイデオロギーをおいて他にはない。

ちなみにクロポトキンは革命家でありながら生物学者でもあった人物だ。アナキスト・大杉栄が著書を多く翻訳していることで有名だが、これ以上は脇道に外れられない。