サイボーグ・フェミニズムの到来
第3回 「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」彼女たちの挙げた声

あらゆるムーブメントと同様に、性やジェンダーをめぐる議論も社会的文脈のなかで遷移する。時代に背を向けて物事を本質化することはやさしいが、ときにそうした態度は社会的事象を後退させることになりかねない。
『第二の性』の名言「女になるのだ」を起点に、SRHRや第2次フェミニズム運動までを縦断。性・ジェンダー論の最新文脈を解説する
目次
SRHR(性と生殖の権利)概説
前節までは、法制的な生殖や人工妊娠中絶の帰趨を概観してきたが、ここでは女性のリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(SRHR:Sexual and Reproductive Health and Rights)つまり性と生殖に関する健康と権利について考えていきたい。試験管ベビーや遺伝子操作を施したヒューマノイドを想定しないかぎり、生殖とそこにかかわる健康は、なによりもまず女性の権利にかかわるものだ。
戦後生まれの団塊世代の子どもにあたる1971〜74年生まれの第二次ベビーブーム世代が出生年齢を過ぎた現在では、日本の少子化対策のチャンスは、とうに逃されているといってよい。この世代が社会に参入した1990年代初頭は、合計特殊出生率が急落した“1.57ショック”に揺れている時期だった。合計特殊出生率1.57がなぜ国家的ショックだったのかといえば、1966年(丙午)の1.58を下回ったからだった。丙午の年に生まれた女性が激しい性格を持つという近世からの迷信があり、その年だけ有意に出生率が下がり、翌67年からは上昇していったからである。折しもバブル景気が終焉し、社会的にも経済的にも冷遇されたこの世代はロスト・ジェネレーションともよばれている。
筆者もこの世代にあたるのだが、少子化が下げ止まらないことが顕在化した当時は、毎週のように少子化対策の審議会やタウンミーティングが開催され、政府肝いりの“エンゼルプラン”や“少子化社会対策基本法”“少子化社会対策大綱”“次世代育成支援対策推進法”などが陸続と立ち上がったものの、功を奏したとはいえない。2000年ごろには世代間対立や世代内対立の構図が苛烈になり、男女共同参画社会や社会的我が子観を根付かせようと企図されたジェンダーフリー教育観は、伝統的家族観を破壊するとして保守派からの執拗なバックラッシュに曝されていた。平塚らいてう『青鞜』にみられるように、日本も第1派フェミニズムにあたる段階では文化レベルで旺盛な言論が起こってきた。しかし社会の成熟化の畢業としての少子高齢化という現実を目前に、リプロダクティブ・ヘルス/ライツについては数十年にもおよび右往左往のまま足踏みを続けたままでいるのが現状だ。
第2次女性解放運動と『第二の性』の影響
シモーヌ・ド・ボーヴォワールによる『第二の性』(生島遼一訳/新潮文庫)が刊行されたのは1949年のことである。この書の冒頭に記された「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」というフレーズはあまりにも有名である。ボーヴォワールはこの書で、まずドミナントな性としての男性があり、女性はそこから疎外された他者性において周縁的にアイデンティファイされてきたことを論じた。そしてその同一化は、とくに生殖をはじめとした身体や、そこに付随する出産や育児などの社会的分業からかたちづくられるとした。のちに述べるジョディス・バトラーはフェミニズムの通史において、はじめて生物学的な性(セックス)と性差としての性(ジェンダー)とを明確に峻別したことを評価しつつ、ボーボワールの性とジェンダーの峻別のナイーブさを批判するのだが、そこについては後述する。
パリ五月革命は、教育制度への不満、社会的不平等と経済的格差、ベトナム反戦運動などの国際的な影響、政治体制への不満に対する学生運動とゼネストによる大きなもので、これらの社会運動は、ボーボワールの事実婚パートナーだったジャン=ポール・サルトルを中心に当時の思潮として論じられていた実存主義を典拠に行われたものの、実際の政治運動に加わったのは男性ばかりで、女性は食事の準備やタイピングなどの後方的な仕事を与えられるだけだった。ベトナム反戦運動でも似たような構図だったらしい。安保条約に反対した学生運動においても、女性は路上で革命運動にいそしむ男性をバリケード内で支える役目を担わされ、ここに記すのも憚られるような“飯炊き女”と“公衆便所”と称されもしたそうである。
これらの背景のもとで、女性の権利としてようやく人工妊娠中絶を求める声が挙げられたのは、五月革命の収束しつつあった1960年代から70年代にかけてのことだった。フランスで起こったMLF(Mouvement de libération des femmes:女性解放運動)においてであった。これに先んじるこの運動の主な思想的典拠となったアメリカでは、同じくベトナム反戦運動における女性の扱いへの反発としてWLM(Women’s liberation movement:女性解放運動)が沸き起こった、日本でもアメリカのWLMがウーマンリブとして朝日新聞で紹介されたことから同様のムーブメントが興り、就職機会や待遇において男女の別を設けることを禁じる「勤労婦人福祉法」が1972年に施行され、1986年には呼称を改めた「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」通称・男女雇用機会均等法が施行され、幾度かの改正を経て現在に至っている。
これら一連の女性解放運動は、フランス革命時の1789年に採択された「人および市民の権利の宣言」いわゆる人権宣言において女性がその対象とされていないことに異議を申し立てた19世紀末から20世紀前半にかけて女性の相続権・財産権・参政権を求めた第1派フェミニズム運動につづく第2派フェミニズムとよばれる。附言すると、従来のフェミニズム運動が白人中産階級のシスジェンダー中心だったことへの反省から1990年代から2000年代初頭にかけて人種や階級、セクシャルマイノリティを包摂する運動を第3派フェミニズム運動、2010年以降にセクシャルハラスメントや暴力になどに抗議した #MeToo運動などは第4派フェミニズム運動と呼ばれ、デジタルプラットフォームを通じてより広範な連帯が形成された。