能力測定社会がわたしたちを壊す
マスメディアは何に負けたのか?
インテリジェンス・トラップとメリトクラシーの地獄 第4回

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著者 桐原 永叔
IT批評編集長

「能力主義」は、わたしたちの生きづらさをどのようにかたちづくっているのか。テクノロジーが競争を加速させ、職場ではコミュニケーション力やリーダーシップといった「人格」までも評価の対象にされる。そんな「測定社会」において、孤独や疎外感が広がる背景と、それを乗り越える鍵を考察する。

目次

地獄への道は“◯◯力”で舗装されている

わたしは現代社会で誰もが感じる疎外感、孤独感について折節、論じてきた。その原因の背景には近代化があり、近代化がもたらしたテクノロジーが資本主義を励まし、都市に人口を集中させて競争を激化させてきたことがあると考えている。
だからこそIT批評であり、テクノロジーと近代の問題なのだ。
こうした国内の問題をメリトクラシーの点から誰でもわかりやすく共感を得られるかたちで提起しているのが勅使河原真衣氏である。デビュー作である『「能力」の生きづらさをほぐす』(磯野真穂解説/どく社)はタイトルからしてズバリなのだが、現在、わたしたちは職場で徹底的に能力を測られている。VUCAと言われ先行きの見えない時代に企業が不安を感じれば感じるほど、人は測られ競争を促される。その測定の基準は、IQを基礎とする能力や、わかりやすい見栄えを与えてくれる学歴をも超えて、コミュニケーションだのリーダーシップだのといった“性格”までを能力として測定対象にされて、わたしたちは職場で丸裸にされる。それを苦にしない人のほうが本当は珍しいはずなのに、それを苦だということが憚られる。わたしたちはどうしてここまでして自分たちの職場をせっせと地獄に変えているのだろう?
ダイバーシティ&インクルージョンを高らかにいいながら、さまざまなテストや試験、面談を通じて、職場の空気に馴染まない人を排除していく仕組みが巧妙に構築されているのが現在なのだ。排除の理屈は簡単だ。「スキルはあるんだけど、コミュニケーション力が不足している」「経験はあるんだけど、リーダーシップが欠けている」となる。マイサイド・バイアスのもとに評価すれば間違いなく評価者の求める測定結果を得られる。
だいたいコミュニケーションは片側の問題であると考えること自体が浅薄──コミュニケーションは二人以上でなければ成立しない──だ。
こうした客観評価や絶対評価ではなく情動的で人格的な評価を求める社会を、教育学者の本田由紀は2005年に『多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』 (NTT出版)上梓して以来、「ハイパー・メリトクラシー」と呼んでいる。昔は、学力だけ気にしていればよかったのに、学力だけでは対応できない能力が求められるようになっていると論じた。それは現在の社会に見事に当てはまっている。本田は、「ライフスキル」のような形式化や言語化が難しい能力が競争の武器になっていく時代を読み解いていた。
そういえば、この時代あたりから「◯◯力」とか「◯◯する力」というタイトルの書籍が多く刊行されるようになったことも思い出す。

「能力」の生きづらさをほぐす
勅使川原 真衣(著),磯野 真穂(執筆伴走)
どく社
ISBN978-4-910534-02-2

多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで
本田 由紀 (著)
エヌティティ出版
ISBN978-4757141049


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