費用対効果計算と生命倫理:ナチスの出生主義から読むアポリア
出生と生産性をめぐるアポリア 第2回

ナチス・ドイツの圧政を逃れ亡命したハンナ・アーレントと盟友ハンス・ヨナスは出生主義を主張した。その背後には、ナチス・ドイツにおいてユダヤ人迫害より前から実施されていた生の選別をめぐる生の選別があった。
生の選別をめぐるナチスの逆淘汰理論とT4プログラムを手掛かりに、費用対効果計算がいかに〈生命〉を対象化したかをハンナ・アーレント/ハンス・ヨナスの〈出生主義〉と絡めて読み解きます。
目次
〈出生主義〉を論じた亡命ユダヤ人哲学者(アーレント/ヨナス)
ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』(大久保和郎訳/みすず書房)において、全体主義の脅威の1つとして出生を否定することを挙げている。アーレントは出生について、新しい活動をはじめることや、既存の秩序にとどまらない新しい価値観や制度をつくりあげる契機として考える。全体主義は、既存の制度を保守することを是とするゆえに出生を否定する。これに対してアーレントは出生を肯定することで政治的な公共性をつくり、全体主義を超克する可能性に希望を託すことを論じている。
アーレントが全体主義として分析の俎上に上げたのは、彼女がユダヤ人としてアメリカに亡命するきっかけとなり、ユダヤ人大量虐殺の中心人物であったドイツ親衛隊中佐アイヒマン裁判の傍聴記録としてのちに『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎/みすず書房)にまとめられるナチズムと、旧ソ連のボルシェヴィズム・スターリニズムである。ユダヤ人として、身をもって経験した全体主義の抑圧そのものに加え、ユダヤ人女性が強制不妊手術を受け、出生を否定されていたことへの怒りもうかがえる。またアーレントの盟友であり、母親がアウシュヴィッツ収容所のガス室で亡くしたハンス・ヨナスは『責任という原理: 科学技術文明のための倫理学の試み』(加藤尚武監訳/東信堂)において、将来世代への責任を訴えるが、そのためには全体主義のような管理された人間を増やすのではなく、新しい世界を創造する多様な人々が生まれてくることが必要だとしている。
全体主義の起原
みすず書房
ISBN:978-4622086253
責任という原理 新装版: 科学技術文明のための倫理学の試み
東信堂
ISBN:978-4887139992
逆淘汰理論とT4プログラムが招いたジェノサイド前夜
ナチスというとユダヤ人ホロコーストを想起しがちだが、1938には重度障がいを持つ子どもを安楽死させてほしいというヒトラーへの直訴に応じてライプツィヒで安楽死させた“クナウアー事件”をきっかけに、重度の障害を持つ子どもを強制的に安楽死させる計画が実行された。
ナチスの安楽死計画において学問的な裏付けを与えたのは、ライプツィヒ大学の法学者カール・ビンディングと精神科医アルフレート・ホッヘの共著『生きるに値しない生への抹消の認可』という書物である。この書物では、国家のために兵士たちが命を落とす一方で、精神病患者や生存の望みのない重症患者がコストを浪費しているという逆淘汰について述べられたのちに、ビンディングらのいう「生きるに値しない生」を持つ人たちが「親族や社会全体にとって無用な負荷をかけている」という主張が開陳される。そのうえで同書は、刑法上の殺人が罰せられる以上、国家のコストを浪費しないために自殺に準じる安楽死の可能性について述べている。
1933年にドイツ国内の遺伝子疾患者にたいする強制不妊手術を認めた断種法が成立し、先に述べた安楽死計画へと拡大する。1939年には、優生思想と社会ダーウィニズムに基づいて、子どもだけでなく療養施設に収容された成人の障がい患者に拡大する“T4プログラム”が実行された。この名称は、同プログラムの本部所在地が“ティーアガルテン通り4番地”にあったことにちなむ。公然の秘密として実施されたT4プログラムがドイツ市民に政府への不信感を抱かせ、ドイツ聖職者からの抗議を受けるとヒトラーはこのプログラムの中止を命令したが、子どもを対象とした従来の安楽死は継続して秘密裏に行われた。これらの作戦は秘密裏に行われ、証拠も隠蔽されたために正確な数値はわからないものの、T4作戦のもとでは7万人の命が奪われ、ドイツ国内外の安楽死計画では約30万人以上の命が失われたという。
シャワー室と偽ったガス室で命を奪ったこのメソッドは「帝国市民法」と「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」通称ニュルンベルク法のもとで迫害されたユダヤ人に適用され、600万人もの命を奪うジェノサイドへと水路づけられた。
純粋アーリア人による第三帝国の建国という虚構のもとで、こうした不当な命の選別が行われたという事実については私たちも警戒すべきだ。出生と生産性の問題、そしてナショナリズムが混同されるとき、だれもがこの陥穽に堕する可能性を否定できない。アーレントの警句“凡庸な悪”として。