長期主義は見えない未来を変えられるか
第2回 功利主義と幸福の序列──その善は誰のものか?長期主義が問う倫理的選択
効果的利他主義を支える総和功利主義
しかし実際のところ、功利主義はイギリス国教会の専横を批判し、貧しい者へのリソース配分を構想する思想だった。
行為の道徳性や正当性を判断・評価する際に、行為の結果を考慮に入れる帰結主義の流れを汲み、諸個人の幸福や快楽をすべて足し合わせた「一般幸福(the general happiness)」の最大化を目的として個人にとっての望ましい生き方や為政者の果たすべき役割について再考を促す倫理思想がベンサムの古典功利主義である。
ジョン・スチュアート・ミルはベンサムの功利主義に修正を加え、1861年に出版された『功利主義論』(中山元訳/日経BPクラシックス)では快楽の質的差異を指摘する。
自分自身の幸福を利己的に追求するのではなく、他人や社会の幸福についてもフェアな立場から考慮して利他的に追求することが、個人にとって本当の意味での幸福最大化に結びつきうるとした。
本書に記された「満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい」という言葉は誤用されがちだが、この言葉につづく「愚者や豚の意見が違っているなら、それは彼らがこの問題を自分の立場からしか見ていないからである」という文は、他者への想像力を抱くことの重要性と、そこから幸福な社会が誕生することを示すものである。
さらに、イギリスの哲学者、倫理学者であるヘンリー・シジウィックは『Methods of Ethics 倫理学の諸方法』(Cambridge Library Collection – Philosophy:ケンブリッジ名著復刻叢書)において倫理的利己主義・直観主義・普遍的快楽主義の3者を比較したうえで普遍的快楽主義としての功利主義を擁護した。
今日的な功績としては、ベンサムが功利主義に基づき同性愛の合法化を主張し、彼の意を継いだミルが女性参政権への道筋を開いたことが挙げられる。
効果的利他主義においては、功利主義的の理念「最大多数の最大幸福」に基づいて、寄付と慈善活動を通じて、より多くの人々を救い、より多くの人々の幸福に寄与する方法を訴求する。
そして自己満足や売名行為に陥らないために、QOL(Quality of life:生活の質)に年数を加味したQALY(Quality-adjusted life years:質調整生存年)という指標を用いた定量的な計算方法が用いられる。
ジョン・スチュアート・ミル (著)
中山元 (翻訳)
日経BPクラシックス
シジウィック (著)
功利主義で現実を割り切ることができるか
効果的利他主義のマニフェスト『<効果的な利他主義>宣言!』では、慈善活動や寄付が世界にとって最大のパフォーマンスを発揮するかどうかを、事例を挙げて分析してみせる。しかし、なかには首を傾げたくなる記述も散見される。
マッカスキルは2010年のハイチ地震と2011年の東日本大震災とを比較してみせる。いずれの地震も世界で報道されて、地震直後の国際支援は合計50億ドルにおよんだという。
ハイチ地震における死者は15万人、東日本大震災の死者は1万5000人であること、また日本は世界第4位の富裕国でありハイチに比べると1人あたり30倍、国家単位では1000倍裕福であることを示して、日本にはこの災害に対処できるだけの財源があったという。
またその証左として日本赤十字が翌日に出した「日本赤十字社は、国際赤十字赤新月連盟の支援を得ておりますので、外部からの支援は不要と判断いたしました。
したがって、現時点ではドナー様からの寄付やその他の支援は求めておりません」という声明を挙げている。
翌日の声明は、震災の全貌が掴めていない混乱のなかで出されたものだと推測される。
また福島第一原発1号機が水素爆発したのは12日の15時36分なので、その影響を加味していないことは明白だ。
東日本大震災の被害総額は3600億ドルにたいして、2010年のハイチ地震の被害総額は77億5000万ドル。
2010年にGDPの123.5%を失ったうえ2021年に再び大地震に見舞われたハイチの窮状も察するに余りあるが、いまも3万人近くが避難している日本の状況も深刻なはずだ。
その後日本赤十字社も2021年3月31日まで義援金を受け付けていた。
例示ということは理解しつつも、日本に暮らす身としてこの見積もりはさすがに看過できない。
また、限られた時間と予算のなかで、どこに寄付をするべきかの選択について、マッカスキルは1994年に起きたルワンダ虐殺におけるオルビンスキー医師を例にひく。
ルワンダ虐殺は、同国人口の20%にあたる1000万人が犠牲となったジェノサイドである。
赤十字病院で負傷者の救護にあたったオルビンスキー医師は、次々に運ばれてくる患者にトリアージを施す。
患者の重症度を順位づけしたうえで、命が助かる順に治療を施すという苦渋の選択である。
マッカスキルの記すところでは、寄付行為を行うわたしたちは、それぞれ命の選別を行っているに等しいのだという。
これもさすがに的を外した比喩だと思う。
ルワンダ虐殺には他国との関わりも大いに起因していたし、当時これを等閑視していた国連のほか多くの西側諸国ものちに強い反省を強いられることとなった。
また当時の強姦被害者は25万人とも50万人ともいわれ、いまもPTSDや貧困に苦しむ市民がいる。ジェノサイドの被害者は病院に運ばれた者だけではない。
先に挙げたトロッコ問題のほか飢餓状態の難破船や臓器移植など、功利主義を考えるうえで二律背反をせまる思考実験がつきものではあるが、身につまされる実例を挙げられるとつい感情的な異を挟みたくもなる。
それが狙いだといわれれば、それまでではあるが。
ウィリアム・マッカスキル (著)
千葉敏生 (翻訳)
みすず書房
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