筑波大学名誉教授・精神科医 斎藤環氏に聞く
第3回 AIは身体性と欲望を持ちえない
ベイトソンとラカンを往来する“記述の弁証法”
家族療法のルーツは、ベイトソンのダブルバインド理論にたいする家族単位のセッションにまで遡ることができるといわれます。ベイトソンについては先生も以前から論じられていますが、現在の臨床にも応用されているのでしょうか。
斎藤 9月に『イルカと否定神学』(医学書院)という著書が刊行されます。ここではベイトソンとラカンとを対比させて論じています。冒頭で知性の形式に興味があると言いましたが、ラカンの分析には、構造を浮き彫りにするうえで比類ない鋭さがあります。一方でラカンの理論は発達の過程や学習、コンテクストといった領域については厳密には語り得ないという限界があります。発達について考える場合にも、人間が一気に構造的な相転移をするという発想をしますから、段階的に変化することを前提としていません。構造主義ですから、共時性において横断的に構造を見抜くのは得意なのですが、漸進的な変化を捉える柔軟性はありません。構造主義の始祖であるレヴィ・ストロースは両者を“冷たい社会”と“熱い社会”という言葉で対比しています。冷たい社会というのは、構造が決定していて進歩しない社会のことで、熱い社会というのは資本主義社会のように構造をどんどん乗り越えて進化していくために安定的な構造を見出すことが難しい社会のことです。ラカンの理論は、後者のように構造が変化する過程を解析することには向いていません。それにたいしてベイトソンの理論は、学習や発達などのコンテクストを解析するツールとして有用です。その一方でラカンが得意としていた、反復やトラウマなどの人間の神経症的な構造に基づく現象を理解することについては弱い。だからこそイルカを分析できるわけですが。
共時的なアプローチと通時的なアプローチ、もしくは静的なアプローチと動的なアプローチというように、一長一短が生じてしまうわけですね。
斎藤 『イルカと否定神学』では、ベイトソンとラカンのどちらの立場からも人間のことを記述できるものの、それぞれに「記述の限界」があるのだということを主張しています。オープンダイアローグにおいては、いわば“記述の弁証法”として、あるときは分析的にアプローチしたり、また別のときにはシステム論的(≒ベイトソン的)にアプローチしたりを繰り返しながら、クライアントさんの主観を“安全に揺さぶる”ことが大きな意味を持っていることも主張しています。
レヴィ・ストロース2を挙げられましたが、ベイトソンも文化人類学から研究者としてのキャリアをはじめていますものね。かれが紹介した男性が依存的な女性を、女性が粗野な男性を演じるニューギニアのナヴェンという風習からは、心理劇の要素をみることができそうです。
斎藤 そこについては、構造主義的な文化人類学からは捉えられなかった、動的な見地をベイトソンが導入したと思っています。