東京大学名誉教授 西垣通氏に聞く(3)
基礎情報学の視座からみえる人間とAIの未来像

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聞き手 都築正明(IT批評編集部)
桐原永叔(IT批評編集長)

西垣通氏へのインタビュー第3回では、HACSモデルや情報の3層モデルなど、基礎情報学の核心へと話が及んだ。そこからみえてきたものは、私たち人間こそが克服すべき課題、そして日本の目指すべきAIテクノロジーの方途だった。困難と指針を同時に突きつける、示唆に満ちた最終回。

西垣通

西垣通(にしがき とおる)

東京大学大学院情報学環名誉教授。1948年東京生まれ。東京大学工学部計数工学科卒。工学博士(東京大学)。日立製作所でコンピュータ研究開発に従事し、客員研究員としてスタンフォード大学に留学。その後、明治大学教授、東京大学社会科学研究所教授、東京大学大学院情報学環教授、東京経済大学コミュニケーション学部教授を歴任。専攻は情報学、メディア論。基礎情報学の提唱者として知られる。著書として、『デジタル社会の罠』(毎日新聞出版)、『AI原論』(講談社選書メチエ)、『ビッグデータと人工知能』(中公新書)、『ネット社会の「正義」とは何か』(角川選書)、『超デジタル世界』(岩波新書)、『基礎情報学(正・続・新)』(NTT出版)ほか多数。『デジタル・ナルシス』(岩波書店)ではサントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞した。

目次

階層的自律コミュニケーション・システム (HACS)とはなにか

自律と他律の矛盾を、どのように理解すればよいのでしょう。

西垣 ここで大切になってくるのは、情報伝達についてです。オートポイエティック・システムは閉鎖系ですから、理論上は異なる生物個体どうしで直接の情報伝達はできません。電子メールでラブレターを送ってもなかなか気持ちが伝わらないような経験は、誰にもあるでしょう。しかし情報伝達をきちんと定義できないと、サイバネティック・パラダイムのもとでデジタル情報社会のテーマを扱うことは不可能になってしまいます。

情報伝達をきちんととらえないと、私たちの社会的な側面を語ることができなくなります。

西垣 理論的にいうとオートポイエティック・システムは他のオートポイエティック・システムの構成素にはなれませんから、自律的な社会のなかで個々の人間はその構成素になれず、したがって自律的にはなりえなくなってしまいます。この矛盾については、ネオ・サイバネティシャンの間でもさまざまな論争がありました。この難問をある意味で解決したのがニクラス・ルーマンです。ルーマンの機能的分化社会論においては、コミュニケーションを構成素として捉え、個人だけでなく社会もオートポイエティック・システムとして自律性をもちうるとされます。しかし、そこでは社会システムと個々人の心的システムが対等なものとして位置づけられます。経済や政治、教育や法などの多種多様な機能システムがそれぞれ独自の論理にしたがって社会を構成しているというわけです。そうすると、各々の社会システムと個々人の心的システムとの関係数は天文学的な数字になり、きわめて複雑化して総合的な分析が困難になります。

モデルとしては成立するものの、社会は多様性に満ちているという結論で終わってしまう。

西垣 この困難を解決するものとして私が提唱するのが、基礎情報学の中心概念であるHACS(Hierarchical Autonomous Communication System:階層的自律コミュニケーション・システム )なのです。従来のオートポイエーシス理論では、各オートポイエティック・システムは互いに独立で対等なのですが、その間に階層関係を導入するのがHACSモデルの特徴です。HACSモデルにおいては、一般に個々人の心的システムはその所属する社会システムの下位に位置づけられます。社会システムは、メンバーの言動を素材としたコミュニケーションを構成素とするオートポイエティック・システムです。一方メンバーである個人の心的システムも、それぞれ自分の思考を構成素とするオートポイエティック・システムとして、ともに自律性を持っています。しかし上位にある社会システムからみると、個々のメンバーはコミュニケーションの素材を提供する他律的なアロポイエティックな存在となります。またメンバー個人からみると、社会は自然と同じく一種の環境として立ち現れて、個人の言動に一定の制約が加えられることになります。

個人が自律的にみえるレイヤーと、他律的にみえるレイヤーとの2つの視点を想定するという理解でよろしいですか。

西垣 そう捉えることで、さまざまなことを理解できるというのが私の考えかたです。典型例として、会社とその社員のオートポイエティック・システムを挙げてみましょう。会社の会議において、社員は生物的自律性を持っていますから、心の中ではどんなことでも考えられます。頭のなかで「つまらないことを議論しているな。そういえば次の週末にはどこに行こうかな」と考えていてもよいわけです。ただし会議中に声に出してよいのは議事内容に関連した発言だけですから、これが制約になります。しかし、個人にとって会社が環境のようなものだとはいっても、会議で「拡販議論の途中ですが、その商品自体、もう時代に合っていませんよ」と発言することはできます。コミュニケーションによって、ボトムアップ的に上位の階層にはたらきかけることは可能なわけですね。もっと大きい価値観の変化も少しずつ引き起せます。若い女性社員より年長の男性社員に多くの発言機会を与えるという従来の慣習が人々の価値観の変化とともに廃れて、参加メンバーの誰もが平等に発言できるようになるかもしれません。このように下位のオートボイエテイック・システムの作動が、長期的には上位のオートポイエティック・システムの作動に影響を与えることもあるわけです。

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