小林秀雄とエリック・ホッファー
機械文明と大衆、そして労働について
地獄への道を舗装する知識人たち
わたしが今でもホッファーに感銘を受けるのは、大学での名誉も収入も捨て、港に戻り散歩と読書と思索の日々にほんとうに幸福を見出していたことだ。それこそわたしが得たいものなのだから。彼は世俗から逃避したのではない。隠遁的な生活というわけでもない。だから意味ぶかい。
ある日の日記でホッファーは、ちょっとした家事を済まし、面倒な役所への届出を終えてすっきりした気分の高揚を記述している。ホッファーは喜びのあまりバラを半ダース買ったと書く。この幸福について、わたしにはわずかに覚えがある。ちょうど時期だから言うが、確定申告などわたしは毎年、受付初日の朝に書類を提出している。これをダラダラとやらずに残して、ギリギリになって提出、やっとセーフというのも解放感としては最高かもしれないが、誰にいわれることなくただ勤勉に、不満なく由無し事を片付けていくことの幸福のほうが深くわたしを慰めてくれる。そんな生活に満足するなんてレイドバックしすぎだとか、そんな慎ましい生活を良いものとして持たざる若者に押し付けるなといった批判も聞こえてきそうだ。
これは2回前の「何故なしに生きるということ 『PERFECT DAYS』と神秘主義」でとりあげた映画『PERFECT DAYS』の主人公・平山の生活もまさにこのままなのだ。これについて川上未映子やら平野啓一郎やら、なんというか社会問題に敏感なふうな人たちが、やれ貧困層の現実を知らず美化しているだの、ユニクロの御曹司のお遊びだのと批判する雰囲気だが、こういう連中について小津映画を批判していた松竹ヌーベルバーグの若手たちと同じだと思ったように、エリック・ホッファーが嫌う知識人そのものじゃないかと思ってしまうのだ。本稿でいえば、彼らは王の論理に楯突く街の論理の代弁者を装っているだけだ。なんのために? 自己承認への欲求のために。
ホッファーをもう一度、引こう。
知識人は傾聴してもらいたいのである。彼は教えたいのであり、重視されたいのである。
もちろん、ホッファーのようにアメリカではよく知識人嫌悪、知性嫌悪が起きる。それが危うい道であることは、ちょうど8年前のアメリカ大統領選でトランプが当選し反知性主義がいわれたのと同じだ。同じころ、神学者の森本あんりは『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の招待』(新潮選書)で、アメリカにおいて深く信仰されているキリスト教のリバイバリズムの論点からこれを解説した。知識人たる既存の宣教師に対するカウンターとしてたびたび登場する無学でありながら実業家としては非凡なリバイバリズムの宣教師たちの構図は、本稿でいう王の論理に楯突く街角の論理という構図そのままでもある。
封建社会を通過しないで近代に達したアメリカという国における知的な権威、知識人に対する警戒と敵意は、ヨーロッパがもたらした近代に対する超克の発火点なのだ。それは小林の「おれは馬鹿だから」という開き直りのように無知を称揚しているわけではない。むしろ、ホッファーの知識人嫌悪と同じように、知性と権力とが結託すること、もっといえば都合よくねじ曲げられた知性が権力化することに反旗を翻しているのだ。
森本 あんり (著)
新潮選書
今年(2024年)はリープイヤーであり、アメリカ大統領選の年である。“もしトラ”などと言われ、トランプの復活が危惧されている。それはアメリカの知性にどんな影響があるのだろうか。
そういえば、『現代という時代の気質』の文庫がでたのは2015年である。その「ちくま文庫版への解説」冒頭で柄谷は、アメリカで吹き荒れる反知性主義の時代にホッファーのような知識人批判は現状をやみくもに肯定するだけで意味がないのではないかと考えたと述べている。
この時代にホッファーを思い出したわたしはいったい何を考えられるのだろう?
