小林秀雄とエリック・ホッファー
機械文明と大衆、そして労働について
かつてカリフォルニアにあったふたつの思想
ホッファーは共産主義を嫌い、それに基づく社会運動にも厳しい目を向けていた。ここで、ふと思い出すはずだ。柄谷行人は「〈近代の超克〉と西田哲学」座談会でもマルクス主義を言挙げし、評価していた。そのことは前回も書いたとおりだ。そんな柄谷がホッファーを持ち上げたのはなぜか。ホッファーのマルクス主義嫌いとどう折り合いをつけたのか。
柄谷はホッファーのマルクス主義運動への厳しい指摘は、マルクス主義運動の参加者ほどほんとうに理解できるものであり、だからこそホッファーの思想は意味があるのだと論じている。アンソロジー『エリック・ホッファー・ブック——情熱的な精神の軌跡』(作品社)で柄谷のその小論が読める。
ホッファーの生活の場はサンフランシスコだった。サンフランシスコ港で沖仲士として数十年はたらき、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭を執った。それはちょうど学生運動の嵐が世界の都市に吹き荒れたころである。東大で丸山眞男が学生運動家の狼藉に対しナチスより酷いと憤慨していたころ、ホッファーはキャンパスの荒廃を紀元前の都市の退廃のようにみていた。ホッファーはこうした若者を嫌悪し成熟できない子供たちだと言った。
社会に出て労働したことがない人間の意見など、成熟したそれとして扱うべきでないとまでいう。いま読めば、それこそ不適切にもほどがあるわけだが、なんら考えさせられるものはないとは、わたしにはどうしても言えない。
この時期のカリフォルニア、サンフランシスコは学生運動のみならずヒッピーたちの聖地でもあった。ホッファーはこの無為徒食の若者をさらに嫌った。おまえたちに社会などつくれないと。
60〜70年代のカリフォルニア。ヒッピー文化こそ、3つ前の「鈴木大拙からスチュワート・ブランドへ ホールアースは宇宙技芸論で語れるか?」に書いたように現在のIT社会の萌芽の地である。
スチュワート・ブランドがおり、スティーブ・ジョブスが坐禅を組み、半導体企業が軒を連ねていた。シリコンバレーはサンフランシスコ・ベイエリアであり、ホッファーが働いていたサンフランシスコ港も同じ区域だ。
ホッファーが嫌った若者たちがつくった現代にわたしたちはいる。わたしは改めて労働のことを考えるようになっている。
作品社編集部 (編集)
作品社
