小林秀雄とエリック・ホッファー
機械文明と大衆、そして労働について

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

小林秀雄を考えるヒント

わたしの小林秀雄のイメージは柄谷行人を読んで以降、さらに偏向していった。1942年の座談会に参加した者たちが戦後に黙殺や非難を受けるなか、小林秀雄が文壇と論壇に君臨したことを知って、わたしのなかのイメージはいやましに悪化していった。それどころか、戦争中の議論について「おれは馬鹿だから反省しない、利巧な人はたんと反省するがいい」と述べたことを知るにつけ、すっかり呆れてしまったのだ──この無反省も、『小林秀雄をこえて』のなかに引用がみえる。さしずめわたしはこれで初めてこの発言を知ったのやもしれぬ──。

極めつけは、フランス文学者である鹿島茂の『ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて』(朝日新聞出版)を読んだことによる。鹿島の言う「ドーダ」とは自己愛のことである。小林秀雄は自己愛の人であり、すべてを自分に引き付けて論じ、独善的であることをその批評スタイルとして恥じるところがなかった。

たとえば、中原中也と三角関係にあった女優の長谷川泰子との赤裸々な体験だけで、世の女性をまとめて論じる。女性性というものを一般化してあたかもそれが常識のように語ることに鹿島は半ば呆れ半ば怒っている。わたしとて、老害や旧弊などともいえない、もっと罪深い志向を感じざるをえない。

しかし、小林秀雄は昭和の世に、それこそ戦前から君臨しつづけた。言論を牛耳ってきた。どうしてこのような知識人が、自意識だけが肥大した人物が、ここまでもてはやされたのかについて、鹿島茂は詳細に分析していく。小林秀雄の言説がパフォーマティブ(言語遂行的)として、その点において誤訳と誤読だらけのランボーの詩で当時の若者を感化しえたのだという。そして、1900年代生まれの小林秀雄らの世代を「ユースバルジ」と規定し、世界の若者たちの自己疎外や孤独とシンクロしえたことを評価している。ユースバルジとは人口ピラミッドで若年層が占める割合が高い状況をいい、政治経済に大きな影響を与えるとされている。世代内での過当な競争が生じるわけで、鹿島のいうような「ドーダ」の人を生みやすくなる。その競争はより個々をしてより過激なパフォーマンスへと向かわせる。

鹿島のドーダ論がさらに面白いのは、精神科医の斎藤環の説を援用して、日本人の心性に深く染み込んでいるヤンキー的なるメンタルのスタイルが小林をして若者のカリスマに仕立てたと論じる部分だ。わたしはこの部分で、ずいぶんと身につまされた。そうだ、鹿島が論じたように、ヤンキー的なるメンタル──王の論理に挑む街角の論理という物語制度──こそ、わたしがロックやそのほかのサブカルチャーから受容してきた感動だからだ。そのうえで、わたしは小林的なる振る舞いを良しとしてきた。ここの記事に以前、書いたように読書における誤読を推奨し、読むことはある種の創作だとする姿勢を維持してきた。知的な活動としてそのほうが、レベルが高いとも思ってきたが、それは小林秀雄がランボーやモーツァルト、本居宣長に対して行ったことと同じだ。鹿島の分類でいえば、わたしは単にパフォーマティブ(言語遂行的)な言説を重視していたようなのだ。

パフォーマティブ(言語遂行的)な言説に滲むのは当然、自己承認への欲求だ。ある意味、現代でも多くの似非インテリが目指すモデルが、小林秀雄かもしれない。なんとなれば、小林秀雄は現実を知る大衆側の代弁を担ったようなふりをして、既存の知識人の足元を揺することでパフォーマンスの効果を高めてきたからだ。出遅れて嫉妬深くなった知識人たちが喝采を送り、その方法を身につけてしまうのも宜なるかな。そこに共通するのは自己承認への欲求だ。

よく、わけがわかったような読書家ぶった連中が、読書の目的やらについてお説を垂れ、意味のある本、ない本なんて選別をしているが、わたしに言わせれば読書の目的は過剰になりつつある自意識を慰めるためであり、世間には著者の自己承認欲求の染み付いた本と著者の自己承認欲求がそれほど染み付いていない本の2種類しかない。

むろん、わたしもそういう連中の列の後ろのほうに並んでいる。

ああ、おぞましい。

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