AIのアルゴリズム・バイアスを糺すのはだれか
情報技術進化の過程で女性たちが示してきたもの

情報分野における女性の活用が遅れをとっているといわれて久しい。大学の工学部も女子学生を確保しようと躍起になっている。リケジョ育成や女性活躍といったひと昔前のスローガンを繰り返すのはやめて、コンピュータ技術を支えた女性たちの声に耳を傾けてみよう。世界最初のプログラマーは女性たちだったのだ。
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パーティに招かれなかった6人の女性たち
1945年、アメリカ各地の新聞にペンシルバニア大学から「数学の学位を持つ女性求む」の求人が掲載された。これに応じて招集されたのは、ジーン・ジェニングス・バーティク、フランシス・エリザベス・ホルバートン、マーリン・ウェスコフ、ルース・リクターマン、フランシス・ブラス、ケイ・マクナルティの異なるバックグラウンドを持つ6名。面接でまず聞かれたのは「電気は怖くない?」という質問だったという。彼女たちが従事したのは、当時ペンタゴンが“Project PX”としてペンシルバニア大学のジョン・モークリーやジョン・エッカートに依頼して秘密裡に開発を進めていた高速計算機ENIAC(Electronic Numerical Integrator And Calculator)のプログラムを行うことだった。世界最初の汎用コンピュータに数えられるENIACは、幅30メートル・奥行き90センチメートル・高さ2.4メートルで総重量は27トンにも達するもので、約18,000個の真空管と、数千から数万のダイオードやリレーが用いられていた。彼女たちに与えられたミッションは、ミサイルの弾道計算の微分方程式を解析して、最適な電子回路となるよう配線することだったが、彼女たちは機密事項だったハードウェアを見ることができず、回線図のみでこのセットアップを行わざるを得なかった。当時エンジニアリングはハードウェア設計のことだと認識されており、ソフトウェアは単純作業だと考えられていたため、彼女たちの処遇は計算士としての扱いだったためである。構造化プログラミングの基礎であるサブルーチン、ネスティングなどは、こうした経緯のもと彼女たちにより開発された。
ENIAC機密扱いが解かれたのは1946年2月15日。その2週間前、バーティクとホルバートンはENIACを統括するハーマン・ゴールドスタインに新たなミッションを与えられる。それはENIAC一般公開のデモンストレーションで披露するミサイル弾道計算をプログラミングするというものだった。人の手では40時間を要する計算を15秒でなしとげるというもので、成功すれば各界の喝采を浴びることは間違いなかったが、失敗すればプロジェクト全体が白眼視されることとなる。さすがにこのときは関係者も差し入れを持って彼女たちの陣中見舞いに訪れたという。お披露目を翌日に控えたバレンタインデーも、彼女たちは夜遅くまで仕事にかかりきりだった。軌道計算は行うものの、着弾点にあたる時点を過ぎてもプログラムが停止しないという不具合に見舞われていたのだ。一旦は帰宅したものの、ホルバートンはあるアイデアが頭に浮かぶとともに飛び起きた――ループの終了条件の桁がずれているのではないか。いつもより早く大学を訪れた彼女をはじめ6人の女性たちはさっそくバーティクとともにプログラムの修正にとりかかり、見事にデモンストレーションに間に合わせる。成功裏に終わり、驚嘆と歓声に満ちたデモンストレーション終了後には、学内で大規模なディナーパーティが開かれたが、科学界の重鎮や軍上層部、マスコミ各社がENIACプロジェクメンバーを称えるなかに、6人の女性たちの姿はなかった。パーティに招待されておらず、軍も彼女たちの名前を公表しなかったためである。
のちにバーティクはジョン・フォン・ノイマンと協力してENIACをプログラム内蔵方式に移行するほか、世界ではじめて磁気テープを用いたBINACの開発に携わるほか、ホルバートンとともに省資源化・高速化をはかるソート・マージ・システムを開発。そのほかにも世界初の商用汎用機UNIVACのCPU開発を主導した。ホルバートンはバーティクとの仕事のほか、COBOLとFORTRANの開発にも携わる。従来は黒かったコンピュータの筐体をグレーベージュにしたり、キーボードの横にテンキーを配置したりしたのも、目に見える彼女の業績である。コンピュータの黎明期を築いた6人の女性たちについて世間が知ることとなったのは、1996年ニューヨーク・タイムス誌のコラムにおいてのことで、1946年のENIAC一般公開からじつに50年を経たのちだった。