ジャーナリスト・服部桂氏に聞く(2)
アナログの知がデジタルの限界を超克する

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聞き手 都築正明(IT批評編集部)
桐原永叔(IT批評編集長)

合理性の本義に立ち返るためのアナログ

『アナロジア AIの次に来るもの』の冒頭には、ベーリング・チリコフ探検隊がアメリカ先住民と出会う場面が記されています。そこではまず、武器を示して捨てる動作によって争う意図がないことを示し、贈り物を交換することで友好の意を表します。モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイターという2人の認知学者は、クック船長が南米の現地人との間で似たような方法で――先住民が振る舞われたブランデーを吐き出すところまで同じです――意図を伝え合うエピソードから言語の起源が即興的なジェスチャーゲームのような身体的なものにあると論じています。

服部 あとがきにも書いたのですが、“rational”の語源は五感のバランス(ratio)を保っている状態のことで、それらが「合理性」を持っているということです。マクルーハンのいうように、グーテンベルクの活版印刷以降、メディアが聴覚から視覚へと移行すると文字のリニアな世界観が中心に据えられるようになりました。近代には全員が文字を読んで同じ命令に従うという論理優先の世界になって、中世までの五感の自由さが失われてしまいました。視覚のほかの感覚を抑圧することが理性的なふるまいであるとされて、アナログなものはノイズとして捨て去られていったわけです。もともと人間の生活には説明できない習慣や、他人には言えないような恥ずかしいこともたくさんあるのですが、文明社会においては「なかったこと」にされてしまいました。

デジタルの限界がみえてきた現在、これまで切り捨ててきた偶然性や非論理性のなかから新しいものを発見するのが「アナロジア」の考えかたですよね。

服部 言語化されなかったものを言語で捉えることはできないかもしれません。近代において、デジタルな言語や論理に偏重したことで見過ごされてきたものを認識するには、アナログの視座が必要だということです。これからもデジタル技術は発達するでしょうし、それを否定するわけではありません。単にデジタルを捨ててアナログに回帰するのではなく、私たちがなにを忘れているのかを見直すための方法論をどうやって見つけ出すかが大切です。

桐原 マルセル・モースやブロニスワフ・マリノフスキーといった人類学、またカール・ポランニーなどの経済人類学の発想もアナロジアに近い考え方を感じます。経済を問い直すにあたっては、第三世界の中にある再配分や贈与、互酬性という習慣に立ち返ることが必要ではないかと感じます。

服部 レヴィ=ストロースが『野生の思考』で明らかにしたように、非文明的だとされているもののなかに、実は高度に合理的なものがあったり、より具体的なものに即した知性があったりするわけです。そこを担保するしくみを考えることも必要です。ジョージ・ダイソンは自然とコンピュータが歩み寄って、自然とテクノロジーとが共存する時代を工業化以前の時代、工業の時代、デジタルの時代につづく「第4の時代」と位置づけています。

先ほどの4学のお話を敷衍すると、そこには定量化できない算術があるかもしれませんし、実際に地を歩き駆けるなかには理屈では説明しがたい幾何学があるかもしれません。また、まだ証明されたことのない宇宙概念が潜んでいるかもしれませんし、平均律や調性にしばられない音楽が溢れているかもしれません。

服部 これまで顧みられなかったことに、本質的なものがあるのかもしれませんから。マルクスが『資本論』で「地獄への道は善意で敷き詰められている」と記したように、現在多くの人が善だと思っていることが、実はまったく間違っていることさえあるかもしれません。アンデルセンの童話「はだかの王さま」に登場する子どものように「王様は裸だ」と指摘できる視点は、そこにあるのかもしれません。

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