ジャーナリスト・服部桂氏に聞く(2)
アナログの知がデジタルの限界を超克する
桐原永叔(IT批評編集長)
生成AIは近代文明の延長にある予定調和?
生成AIについても、あくまでも1次元の統計処理であって、質的なものではなく量的なものだということですね。
服部 生成AIというのは、1次元の知を高度に突き詰めていった到達点ですが、原理的に解くことのできない問題についてはアプローチできません。さきほど例にあげた漱石の隠喩のような創造性はありませんし、問題を発見するための自らアルゴリズムを書くことはできません。理論的限界を超えた新しい発見についての想像力を働かせることはできないわけです。重要なのはChatGPTにはできない原理的なことはなにかを問うことだと思います。それは生活空間の残り99パーセントのなかから見つかるかもしれないですし、宇宙全体からみれば私たちのたかが数千年の知恵で見つかるものではないかもしれません。少なくとも数値的に計算しなくてもわかることは、たくさんあるわけです。
自律型AIが誕生したら人間を支配するのではないかという脅威論も聞かれますが、現在のところAIが自分でプログラムを書き換えるようなことはできません。
服部 遺伝的アルゴリズムのようにコードをランダムに組み合わせて偶然の力で新しいプログラムを作る試みもありますが、現在のところ創造的なプログラムは人間にしか書けません。まだアルゴリズムでは書ききれないことや言葉にならないことも、たくさん残されていることを忘れてはなりません。コンピュータやChatGPTを使うことがいけないわけではなくて、限界があることを理解して使うことが重要なんです。たとえば藤井聡太さんはAIを使って将棋を研究しています。名人は定跡の枠内で考えるのですが、藤井八冠はすべての手を網羅しているAIによって可能性空間を広げて考えている。同じように、人間がふだん意識していないことを発見するためには、偉大な学者が考えたのだから間違いないだろう、というだけでは不十分です。未知のものがあるとしたら、私たちが考えたこともなかったり、考えたくもないところにあるはずです。たとえば冷戦下の1960年代にハーマン・カーンが『考えられないことを考える―現代文明と核戦争の可能性』(桃井真 松本要訳、ぺりかん社)という本を出版しました。これは米ソが核戦略に失敗して人類が滅びるかもしれなら、それに備えるべきという内容でした。当時の人は、そういうことは起こり得ないし、起こるべきではないないと考えていましたから。2011年の福島県の原発事故と同じパターンですね。
恒常性のバイアスのなかにいたわけですね。
服部 AIそのものには人間が操作しない限りバイアスがありませんから、人間の生存に関わる発想や思考の限界について、可能性を広げて例示することができます。そのように自分たちの欠如を補完する使い方ができるわけです。それをケヴィン・ケリーは“Artificial Alien”と称して、今後コンピュータ技術によって文明の発達があるとすると、宇宙人のように人間とはまったく異なる知性体に出会うことだと言っています。人間の文明の発達というのは、日本の工業社会がそうだったように、内部で成熟していくと伝統主義になってきて、既存のスキームに基づいて経験の積み重ねで進んでいくという内向きなものになります。そして原理そのものへの問いが失われていくと、いざこれまでの枠組みが崩れたときに右往左往してしまい、とにかく根性で頑張れと言ってみたり消費を喚起しようと言ってみたりする。もともとの前提の是非を問うところまでは至らないわけです。いまは産業革命以降の工業社会のパラダイムが成熟して、コンピュータ技術も発達したけれど、その前提に綻びが生じている状態です。最近はそもそも資本主義が正しかったのかを問う議論も盛んになされていますが、いまは原点を考えるべきところに来ています。
「人新世」という時代区分もなされるようになりました。
服部 大きく考えると、中世まではただ神を信じて頑張ればいいとされてきました。近代になると、科学的思考が体系化されて、ただ信じるだけではなく自分たちで証明することを考えて、それによって結構うまく物事が説明できるようになりました。しかしそこにも限界がみえはじめて、最近はポスト近代をどうしようという論議が活発になっています。