未知のものを理解しようとする想像力が倫理になる
東京女子大学現代教養学部准教授・大谷弘氏に聞く(3)

テクノロジーの進化に理想を託すことは、ときに人間疎外の発想に帰着する。科学の発展に伴って経験的事実が重視された20世紀初頭、ウィトゲンシュタインはその趨勢に異を唱え、理性主義にも認識論にも与さない立場をとった。現代に生きる人間として必要な倫理的態度、それは他者を理解して受け入れることではないだろうか。

大谷 弘(おおたに ひろし)
1979年京都府生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻博士課程満期退学。博士(文学)。東京女子大学現代教養学部准教授。専門は西洋哲学。著書に (筑摩書房)、 『ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学』(青土社)、『「常識」によって新たな世界は切り拓けるか――コモン・センスの哲学と思想史』(共編著、晃洋書房)、『因果・動物・所有――一ノ瀬哲学をめぐる対話』(共編著、武蔵野大学出版会)、訳書として『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇 ケンブリッジ1939年』(共訳、講談社学術文庫)がある。
目次
科学技術の進歩とプラトン主義
都築 ウィトゲンシュタインは進歩という言葉に否定的ですよね。
大谷 たしかに彼は進歩という言葉を嫌うのですが、それは科学技術文明がどんどん進む意味での進歩だと思います。おそらく科学が発展すれば社会がよくなるという当時の楽観的な趨勢に懸念を抱いていたのではないでしょうか。20世紀初頭というのは、論理実証主義などに見られるように、科学と進歩とを抱き合わせで考えられた最後の時代でした。その後は、第二次世界大戦が起こったり大衆社会のなかでもさまざまな問題が出てきたりして、留保なしに科学について楽観的なことを言えない時代になってきます。ウィトゲンシュタインは早い時期からそうした懸念を裡に秘めていたのだと思います。
都築 思想としてはわかるのですが、彼は工科大学でプロペラの特許を取ったり、小学校教員を辞めてから姉に家の設計を頼まれて凝ってみたりという人でもありますよね。
大谷 そうですね。彼のなかで科学技術的な志向と思想とがどのように共存していたのかについては、わからないことも多くあります。科学技術の発展に否定的ではないけれど、手放しで賞賛することには懐疑的だったのでしょう。他方でドストエフスキーのような文学に意味や意義をみていたりもして、さまざまなものが同居している人だと思います。
都築 『カラマーゾフの兄弟』を30回読んだという逸話は驚異的です。
桐原 ロールズの話題にあったように、ある種の均衡も健全な常識がなければ保たれませんよね。科学技術と思想の一方しか認めなくなると均衡が保たれなくなり、正義というのも成立しづらくなってしまう。
大谷 ウィトゲンシュタイン自身はバランスの悪い人だったと思います。けれど素朴なテクノロジー礼賛ではないのは間違いありません。哲学の営みとしては、科学のモデルで進歩を目指すよりも、自分たちのしていることを見つめなおすことに重きを置いていた人だと思います。
桐原 科学が形而上学的なものを否定しつくすと、科学による普遍的な統一が行われるとも考えられますよね。
大谷 同時代の論理証主義の人たちには統一科学の理念というのがあって、哲学者が交通整理を行いつつ、物理学を基礎として諸科学を体系づける構想をしていました。ウィトゲンシュタインはそれを嫌悪しています。
都築 『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎編』では、論理体系において現実化していない矛盾を予防する必要はないとするウィトゲンシュタインにチューリングは「現実化していなくても、矛盾のある算術に基づいて設計した橋が落ちてしまうこともある」と疑問を呈します。それにたいしてウィトゲンンシュタインは「それは物理の問題だ」と応答していますね。
桐原 AIをめぐる議論で、物理学者のロジャー・ペンローズは量子脳理論を引きつつ、AIの進化はまだ中途半端だから危険なので行きつくところまで到達すれば素晴らしいものになるだろうと主張しています。それに対して、かつて盟友だったスティーブン・ホーキングは、悪しきプラトン主義でしかないと批判しています。
大谷 ペンローズにはたしかにプラトン主義者のイメージがあります。ウィトゲンシュタインは、プラトン主義については批判的です。科学ではなく、きちんと地に足をつけて考えようとする立場ですね。
桐原 AI研究においても、科学技術の宗教化の話でふれたように、AIが統一的な理論や普遍性に到達して神性を持つイメージが抱かれることがあります。
大谷 哲学の文脈でのプラトン主義は、現実世界とは切り離されたイデアの世界を想定するイメージですが、 そこに到達するイメージになるということですよね。
都築 ハラリのいう「ホモ・デウス」はイデア的ですよね。
大谷 ウィトゲンシュタインはイデアについてまとまった議論をしているわけではありませんが、批判的な立場にはなると思います。大きく考えると反プラトン主義の哲学者ですが、事実のみを重視する経験主義者でもありません。