偶然性と即興性が拓くAI詩の前衛性
ChatGPTから考える身体と「心」
はじめに行為(おこない)ありき
「はじめに言葉ありき」とは聖書(ヨハネの福音書)の一節として有名なものだ。神の言葉、神の知性によって世界は生み出されたということだ。これに対し、文豪ゲーテの『ファウスト』1・2(相良守峯/岩波文庫)では、「はじめに行為(おこない)ありき」となる。知性より身体と言っているかの如く、ファウストは馬の脚をもつメフィストと契約し若い肉体を得る。
ファウストが若返って得たのは時間であり、失ったのは倫理だったかもしれない。グレートフェンへの仕打ちこそはその証だろう。なにやら、私が想起するのは人工知能と人工生命の違いであり、このところ記事にしてきたポストヒューマンを考えるヒントなのだ。
身体や行為が心や意識を生み出しているという議論で、最新の書籍は『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』(ニック・チェイター著/高橋達二、長谷川珈訳/講談社選書メチエ)だ。著者であり、イギリスの認知科学者・行動科学者であるチェイターは、私たちの心理というものがほとんど身体反応に対する即興的な解釈にすぎないと論じる。ゆえに深層心理や潜在意識などというものは知能によって捏造された“でっち上げ”だという。だとすればアヴァンギャルド芸術が発見しようとした人間の裡の“狂気”もまた捏造されたものだろうか。とはいえ、芸術はそもそもが捏造の仕業ともいえ、アヴァンギャルド芸術の価値はなんら損なわれはしないはずだ。
チェイターの議論にかなりの程度の説得力があると感じるのは、私自身も自分の心理や感情が発生的なものではなく創作的なものだと考えていたからだが、そういう考え自体もさほど珍しくもないだろう。身体的負荷、たとえば運動後のドキドキを「不安」と解釈して、そういう感情がつくりあげられるというわけだ。
私たちは何らかの意味を理解したり思考したりするのではなく、即興的に意味を生成しているだけなのだというメッセージも、私自身の読書体験から思うところがある。私は昔から本を読むことは、その本の内容を理解することよりも、本を読みながら思い浮かんだことを考え連ねることだと感じてきたからだ。それこそ即興的に連想を重ねることが、私にとっての読書だった。だから、著者の言いたいことやメッセージよりも重要なのは、そのときその瞬間に、その本のそのページを読むことで創発される思考なのだ。
私にとって読書は身体の経験なのだ。身体の経験とは行為と環境の創発であり、そこには偶然性が伴われる。そして、この偶然性が制限不能な身体の経験を変化させていくという循環となる。これは、ファインマンが紙の上で紙と手によって思索したのと同じように、環境に思考が漏れ出していくということであり、優れた思索にはこうした傾向があると考えている。
身体経験の知性という点では、私はもう1点、禅宗の身体修養を思い浮かべる。禅の公案には、庭掃除(作務)の最中に悟りを開く僧が登場したりする。むしろ瞑想によって悟りを開くよりも何らかの行為中に悟りに至る話のほうが多い気がする。
悟りは自らの身体をふくむ環境のなかで尖らされた思索の臨界点の先にあるものではないかと思う。
心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学
講談社
ISBN:978-4-06-524106-6
今回はまったく首尾一貫しない内容になってしまった。収拾がつかない。
エクス・マキナでも登場させて終了しよう。Chat GPTに結論を書くように指示してみると、以下の結論を授かった。
Chat GPTは、人工知能の分野で非常に重要な存在となっており、その文章作成能力は今後ますます発展していくことが予想されます。また、Chat GPTを通じて、人工知能の技術がますます一般に浸透し、私たちの日常生活においてもますます重要な役割を果たすことが期待されています。これからもChat GPTの発展に注目していくことが必要であり、人工知能の進化に期待することができます。