偶然性と即興性が拓くAI詩の前衛性
ChatGPTから考える身体と「心」
人工知能ではなく人工生命
クラークは著作でロボティクスの研究を参照して思考を進めていくのだが、もうひとつ注目した、というか、私がこれまで見落としていたのは「人工生命」という言葉だ。クラークは「人工知能(AI)」ではなく、「人工生命」という。知能ではなく生命だ。この連載でも触れてきたポストヒューマンに通じる研究のほとんどは人工知能を対象にしていたのに、ここでは人工生命が対象となる。
では、人工知能と人工生命で何が違うのか。
人工知能が永遠を目指す物に対し、人工生命はその名の通り有限なものである。私はAIベンチャーにいるせいで、どうしても人工知能に関心が集中してしまうのだが、視野を広げて考えなければならないのは人工生命のほうである。
池上高志教授の書作タイトルも『生命と意識への構成論的アプローチ 動きが生命をつくる』(青土社)である。生命なのだ。同じく東大の松尾豊教授がAIの進化の過程、次のブレークスルーとして身体をもつことを挙げていたことを思い出す。ただし松尾豊教授は身体をセンサーとして取得した複雑で多様なデータを学習することでAIが進化するとしているのに対し、池上高志教授は身体が生み出す運動の形式やダイナミクスが生命をつくりだすという。似ているようで大きな違いだ。身体は知能に隷属する道具ではないだ。むしろ知能のほうが身体より下位にあるようなイメージに近いし、クラークの議論までふくめれば身体を含む環境そのものに知能は漏れ出している。
構成論というのは作ることによる理解という意味である。生命をつくることで生命を理解しようというアプローチだ。サイエンスよりもエンジニアリングと言い換えてもいいかもしれない。ゆえに池上高志教授も大阪大の石黒浩教授とアンドロイド“Alter”を制作する。共著である『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』(講談社)は、従来の人間観を改めるようなメッセージにもなっている。
池上教授の時間的秩序という考えは、まさに有限である生命の根拠となっていると思った。「IT批評」の取材でも、この時間的な有限性こそが倫理が生まれた理由ではないかと質問も浮かんだ。有限である生命を維持するためにこそ、私たちは利他性や倫理あるいは宗教を必要としたのではないか、と。
倫理が心を必要とするもので、心は身体感覚が環境と相互に侵食しあうなかにあるだとすれば、倫理もまた身体の一部となるものなのだろう。
動きが生命をつくる
青土社
ISBN978-4-7917-6351-1
人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか
講談社
ISBN978-4-06-220385-2