偶然性と即興性が拓くAI詩の前衛性
ChatGPTから考える身体と「心」

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

意味という中心なき人間らしさ

ChatGPTはイーロン・マスクとも関わりのあるOpen AIが開発した言語モデルGPT-3を搭載したチャットボットである。GPT-3は「Transformer」というディープラーニングの手法を用いて開発されている。1750億個のパラメータと5兆個のコーパスを使い、ひとつの単語から次にでてくる単語を予測する自己回帰型言語モデルを学習させたことで、これまでにない自然な言語生成を可能している。まるで人間のように文章を生成するので瞬く間に世界に広まった。Transformerを活用した言語モデルは今後どんどん発表されるだろう。それらはGPT-3を凌駕する可能性を十分に秘めいている。

東京大学の池上高志教授は「IT批評」の取材で、GPT-3は言語というものが意味を発する仕組みに対するひとつの示唆になっていると話した。言語は、単語ごとの意味、意味と意味との関係によって、つまり部分の積み重ねによって全体が意味を為すのではなく、単語と単語の相補的なグループによって意味を人のほうが “解釈”しているという可能性だ。それはカットアップでつくられた前衛詩を解釈するのと原理的には同じだ。

Chat GPTが生成した文章を私たちが自然だと感じるのは人間も同じように言語を扱っているせいなのではないか。意味の繋がりから全体を理解するのではなく、単語の集合を好きに解釈し全体を創造しているのかもしれないからだ。

意味という中心なき単語の集合を操って人間っぽくなるChatGPTは、実が人間も単語の意味など操っていないのかもしれないという思わせる。

コーパスとなにげなく言ったが、コーパスとは言語研究のためのデータベースのことで、ある単語に付随して登場する単語をグループとしてデータベース化している。かいつまんで言えば、意味の類似したグループではなく、いっしょに使用されることが多い単語のグループということである。相性のよい単語を集めたものと考えてもいい。もしかすると文体というのも意味の連携から生まれる総体的機能ではなく、ただ相性を調整したのみの単語の集合なのかもしれない。

文体はある種の創発の産物であり、その意味やメッセージは、だから頭だけで理解できるものではない。それこそ、私たち自身の身体によってしか文体が発する意味やメッセージを受容できないのではないか。

相性のよい単語をつなげていくと自然だと感じられる意味を生じるのだとすれば、Chat GPTの詩作は「カットアップ」という技法とは真逆のものといえる。「カットアップ」はむしろ相性のよい単語を避ける──偶然性を取り込み事件性を高める──ためにつくられた技法だ。そういう意味では、ChatGPTに対する驚きは前衛詩に対するものとは別とみたほうがよいだろう。ChatGPTは意図して人為性を学習しているようだからだ。

池上教授も『現れる存在 脳と身体と世界の再統合』(アンディ・クラーク著/池上高志、森本元太郎訳/ハヤカワ文庫NF)の「文庫版監訳者あとがき」で、GPT-3で詩をつくると述べている。AIが連ねた言葉はやはりまだ私たちの想定からズレている。その分だけ詩的な新しさを与えてくれるだろう。こんなものは詩ではない。こんなものは偶然性も即興性もないというのは簡単だが、それは短絡にすぎる。

哲学者アンディ・クラークの『現れる存在』は認知科学の分野を革新した世界的な名著といわれている。邦訳はずいぶん遅れたのだが、現在でもじゅうぶんに核心をつく内容なのはいうまでもない。

クラークは、心や認識を脳内のものでも、個々の人間のものでもなく、環境との間に生じるものとして論じる。脳という中央集権によって、私たちは自分自身を操作しているのではなく、身体の部位それぞれが環境との接触のなかで最適な情報を最小の効率で取得して反応していると考える。これはまるで汎神論のような世界観で、こうした議論にはスピノザが登場することもあるのはそのせいだが、ここで紙幅がない。

『現れる存在』で印象深いのは、物理学者のリチャード・ファインマンのエピソードだ。ファインマンはある歴史家との会話で、理論は頭の中で思索され紙に書かれたのではなく、紙の上で紙と手によって思索されたという内容の話をする。クラークはそれを「心の拡張」という。ほかにも興味深い例がある。マグロの推進力はその骨格や筋肉が生み出す物理的な力では不可能なほど大きい。マグロの推進力は尾鰭がつくる2つの方向の水流の相互への反発によって爆発的な推進力を得ている。マグロは脳から尾鰭に指示して、その力で推進しているのではなく、尾鰭が水流を身体の一部として推進力を得ているということだ。

ファインマンのエピソードもマグロの例も、重要なのは紙や水流といった環境を“利用”しているわけではないことだ。環境そのものが認識となり行為となっているのだ。

身体とは、単なる物理的な身体をふくんだ、身体によって構造化された環境全体なのだ。

現れる存在──脳と身体と世界の再統合

現れる存在──脳と身体と世界の再統合

アンディ・クラーク 著

池上高志 訳

森本元太郎 訳

早川書房

ISBN:9784150505912

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