純粋な観察と洞察の到達点
文体を得ること、思索すること

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テキスト 桐原 永叔
IT批評編集長

純粋に自ら示唆するということ

神々は「想像力の発明品」ではなかった。神々とは、最初の社会的人間が発揮した、意志の力そのものである。

『カルロ・ロヴェッリの 科学とは何か』(栗原俊秀訳/河出書房新社)

そのように『神々の沈黙』について述べたのは、イタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリだ。彼の新刊『カルロ・ロヴェッリの 科学とは何か』(栗原俊秀訳/河出書房新社)でページを割いて言及されている。

この本自体は、古代ギリシャ、ミレトスの哲学者アナクシマンドロスが人類史上初めて私たちの大地つまり地球を宙に浮いた物体として想像しえたことを巡って進む。日本では最新刊だが、著者にとってはデビュー作である。アナクシマンドロスが持ち得た想像力こそ科学の科学たるものだと言う。

アナクシマンドロスはタレスという師匠をもっていたが、師匠の思索を受け継いだわけでなくまったく独自の世界観と哲学に基づいて思索を重ねた。それこそ、参考にすべき先人たちの論文も著作もないなかで、アナクシマンドロスは観察と洞察によって、近代科学を切り開いたガリレオやニュートンと同じ地点にまで到達している。

それは並の天才のなせるものではない。なんとなれば、ガリレオがコペルニクスの地動説を参考にしたように、コペルニクスが古代ギリシャのアリスタルコスの太陽中心説にインスパイアされていたように、はたまたニュートンが自らは「巨人の肩」にのって─つまり先行研究を参考にして─遠くまでを見通したのだと言ったように、多くの天才でさえ純粋に自律した思索をできたわけではないからだ。

ここに、量子力学と相対性理論を統一するという最先端の物理学を研究する、ロヴェッリが驚嘆し賛辞を惜しまないアナクシマンドロスの大天才があるのだ。アナクシマンドロスには読書を通じて他人の頭を使って思考することはもともと不可能であったのだから、どのような思考もショーペンハウアーのいう思索そのものである。

そこまでなら多くの古代ギリシャの哲学者も同じことかもしれない。アナクシマンドロスが真にすごいのは、その思索の到達点が数千年先まで届いていたことにある。そんなことが可能であろうか。現代に生きる私たちが、たとえば1000年後の科学的事実に相当する仮説を想像しうることが可能だろうか。おそらくは1000年後には私たちの現在の科学的な常識のほとんどが覆っているか、無用になっているだろうから、なおのことに到達困難なところまで、観察と洞察だけで思索することができるだろうか。

すくなくともアナクシマンドロスはそうしたことをした。人の思索とはそこまで行けるものなのだ。ショーペンハウアーのいう思索とは本質においては、アナクシマンドロスの観察と洞察に準ずるものだろう。

多量なだけの読書はややもすれば観察と洞察のための目を曇らせるものだ。

さて、観察と洞察の力のない私にできるのは読書によって得たものを自らの貧弱な文体をもってアウトプットすべく思索の入口をウロウロするぐらいしかない。

カルロ・ロヴェッリの科学とは何か

カルロ・ロヴェッリ 著

栗原 俊秀 訳

河出書房新社

ISBN:978-4-309-25441-8

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