純粋な観察と洞察の到達点
文体を得ること、思索すること
心は何を汚染するか?
ショーペンハウアーは意志を否定した。ヨーロッパで初めて仏教思想の影響を受け、事実、なんども言及するショーペンハウアーが否定する意志とは、仏教の無我とよく似ている。似ているが、同じようなものとは言い切れない。このあたりは専門家と意見交換してみたいものだ。
では、この意志とはなんであるか。ショーペンハウアーのいう意志は、「欲望」「欲求」と読み替えることで直感的には理解しやすい。何を為すにも人は己の意志から自由になれない。己の意志から自由となって、より普遍性のある思索など常人がなんの修練もなくできるわけもない。それは天才の業である。
意志の問題が現代においても重要なのは、個々の意志が生きにくさの根本にある「欲望」「欲求」の桎梏になっている点は言うまでもないが、私はAIの自己意識の問題との関わりにより関心が向いている。ここの記事でも、何度もAIの自己意識、人間の意識について考えてきた。量子コンピュータによってAIがさらなるイノベーションを遂げたとき、人工の意識や意志、そして心が誕生するのではといった考えも紹介した。
哲学者ダニエル・デネットはこうした問題を古くからとりあげてきた。『心はどこにあるのか』(土屋俊訳/ちくま学芸文庫)でも、機械によって心を生み出せるかを論じている。心、意志、マインドといったものを、人工知能の研究者、生物学者、そして自らの専門である認知科学、哲学の領域から問うていく。結論など出せようはずもないが、この領域での論点が整理されて、問うべき対象が明瞭になってくる感がある。
心の問題は、機械だけでなく動物に対しても同様に哲学的な思考を求める。本書の面白さは動物の心を論じた点にもあることを付記しておこう。
心はどこにあるのか
ちくま学芸文庫
ISBN:978-4-480-09753-8
神々を代替する意志
このデネットの議論に大きな影響を与えたのは心理学者であったジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙—意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳/紀伊國屋書店)である。これはとてつもない本である。1976年に発表され、日本で翻訳書が刊行されたのはやっと2005年のことである。その間にジェインズは若くして亡くなっている。
『神々の沈黙』のなにがとてつもないのかといえば、それは人類にはそもそも「意識」なんていうものはなく、3000年ほど前になってやっと「意識」は人類のものになったというのだ。
意識なき時代、人類の脳には神々(先祖)の声を聞く機能があり、その声をこそ指針にして人々はまとまり生きてきたという。なんともにわかには信じられない、トンデモ本の理屈に思えるかもしれないが、膨大なデータと知見を根拠に、人間の脳にそもそも備えられた2つの機能について、脳のなかにいかにして神(先祖)の声が居着いたのかを論証していく。
あまりに大胆な仮説だが思い当たるもの、たしかに付合する事実が多くある。しかし、人類の脳からやがて神々(先祖)の声は失われていく。言葉や文字を得たことで、時間を空間としてとらえ、事物を比喩化し、その世界のなかに己の姿を投影することで、意識が生成されていく。それに従って、脳内の神々(先祖)の声はだんだんと遠くなり薄れる。
それに抗うように人々は預言者や霊媒師をトランスさせて神々(先祖)の声を聞こうとする。しかし、声は遠のくばかりだ。神の指示がなくなれば、人々は誰に代わりに考えてもらうのか、何を頼るのか、何によって結束するのか。
権力者は、疑いと恐怖によって神々の恩寵を支配に代える。
神々はいつしか沈黙し、権力者と支配だけが残る。
神の声が遠のいて、その代わりに意識が生まれたからだ。意志によって普遍を駆逐するというショーペンハウアーの議論にも似ている。神という普遍を滅ぼしたのは、人々の凡庸な意志だった。
すこし踏み込めば、思索できないことを知識の摂取(読書)で補おうとする人々の動きも、おそらく神々の声を失って意識に頼るようになった人類に共通の習性なのだろう。
求めるべき内なる神々の声に耳を傾ける。それは芸術家がインスピレーションを求めるがごとく、多くの学者がセレンディピティを求めるかのごとく。自らの意志や意識を放下したときにこそ、インスピレーションもセレンディピティも舞い降りる。そういう例は数限りない。意志や意識はむしろインスピレーションやセレンディピティにとってノイズなのだ。
内なる神々の声のために、ショーペンハウアーは思索せよといい、宗教では坐して瞑想することを求めるのだ。
神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡
紀伊國屋書店
ISBN:9784314009782